知らぬ他国の夏祭り

 

松本清張原作の名画「張込み」の1シーンに、刑事役の宮口精二が

「知らぬ他国の夏祭り、か」

とつぶやく場面があります。

知らぬ他国の夏祭り・・このシーンは、犯人を追って東京から九州の佐賀までやってきた刑事の独白で、その町では夏祭りの季節でした。
孤独、徒労、不安・・・そういった感情が、この一行によく表れています。

今、東京で「知らぬ他国の夏祭り」が開かれています。

東京オリンピック 2020。

日本という国も、東京という街も私はよく知っています。生まれた国であり、育った街でありますから。

それでも、この夏祭りをやるような国は、私は知りません。

それは、以下の理由です。

ーーーーーーーーーーーー

五輪がとうとう始まりました。

開会式の中継を見ていて、私は寝てしまいました。それでも、感想は人それぞれ。
それについてはここでは書きません。

それより、今更ながら、開催自体について、個人の独白。
誰に対してでもない、個人の率直な気持ちが整理できましたので、書き留めておきます。あくまで、個人的にです。

ですから、僭越ながら、否定的なコメントはお断りです。

コロナなんか無かった7年前に、開催が決まった瞬間からずっと東京五輪に反対してきました。あちこちで書いてきたから、ご存じの方もいると思います。それがついに開幕したので、いよいよかという気持ちです。

それでもやっぱり、日本選手が健闘するのを見ると嬉しくなる。率直に、そうです。

これはどういうことかな・・・?と自問自答して、答は出ました。

競技やアスリートは何にも悪くない。
スポーツは素晴らしい。
スポーツという言葉は「非日常」という世界を表す言葉につながり、「日常」からかけ離れた時間と空間で、普段は「生きるため」にだけ活動する人たちが、より活力を得られる高い次元のパフォーマンスをしたり、見られたりする場なのです。

その意味では、演劇や「祭り」と一緒です。

オリンピック精神自体も素晴らしく高邁なもの。

古代オリンピックは、小国同士の戦争が「日常」であったギリシャで、4年に一度は武器を捨ててスポーツという「祭り」で集おうという、当時の人間の叡智から生まれたものです。
まさに、非日常の「スポーツの祭典」であったのです。

その精神を、19世紀末にフランスのクーベルタン男爵が、長年の戦火に揺れるヨーロッパ諸国に提唱して始めたのが、今の近代オリンピックです。
開催中は戦争行為をやめ、敵国同士もスポーツの場で、平和に競おうという、「非日常の祭典」なのです。
だからオリンピック自体の元来の精神は、平和を愛する人なら誰も否定できないものであり、文句なく美しいものです。

そして、日本人である私が、自分の国である日本を愛する気持ちももちろん強い。
結構社会の現状に批判的なことを書く私を「反日」と言う方々もいるようですが、そういう人たちは、単純な思考で単純な決めつけと表現をされるだけです。言葉を換えれば、「見識」が足らないだけのことです。

それはそれとして、五輪の精神は高邁であり、人が自国を愛する気持ちは強い。
だから、自国開催の五輪を、本来はもろ手を挙げて歓迎すべきでしょう。

ですが、今回の五輪については、決定的な事実があると感じています。
それは、この五輪誘致を決めた人たちの一部の「動機が悪すぎる」ということです。

彼らが目指したのは、一言でいえば、五輪開催による日常の中の「利権」でしょう。
政治的利権、経済的利権、権力的野望・・・。

今までの五輪でも、そういうものがあからさまに現れた例がありました。
ナチスが支配するドイツで開催されたベルリン五輪です。
この五輪でナチスがその正当性を世界中に示した後、世界は未曽有の戦火の時代に突入していったのです。まさに、五輪の精神の悪用と破壊であったと言えます。

それでは、今回の東京五輪。

その開催の意義は、何なのでしょうか?

復興五輪? まだ、震災復興は道半ばです。
コロナに打ち勝った証の五輪? 今、コロナ禍の最中です。
どんな美辞麗句も空疎に聞こえ、とてつもなく大きな違和感を感じます。

1964年の「戦後復興の証」として行われた前回五輪にももちろん利権はありましたが、それは、利権というよりも、復興の結果として普く(あまねく)国民に降り注がれた「国益」というものでした。

これを契機に、新幹線や高速道路が出来、都市部の近代化が急速に進み、日本が世界の先進国の仲間入りをしたのです。あきらかに、「国益」を増した五輪でした。

TOKYO2020には、そういう国益がありません。
一部の関連業界や企業や圧力団体の利権という次元に留まっている。
まさに、「矮小な世界の巨大な利権」なのです。
普く国民に降り注ぐ国益などは全くなく、むしろ、終わったあとの負債が国民にのしかかってくることが明確です。

負債は、これからの世代が負担するしかありません。

だからでしょうか、今の若い世代は、今回の五輪に全然沸き立っていない。
五輪は若者の憧れのイベントでもなく、何処か別次元で行われる大きなスポーツイベントに過ぎず、その開催が自分達の負担になるのであれば、そんなものはやらないほうがいい、と思う人も当然多いでしょう。

コロナも、早晩終結します。
だから、コロナ禍を避けるために開催中止せよとは言わないし、もう始まっています。

アスリートたちは懸命にプレーしている。それは感動的です

だから、競技自体は楽しめばいい。
私だって、自分で経験してきた種目の競技(陸上・ボクシング)などは夢中で見るでしょう。
そして、日本選手が活躍すれば、それはとても嬉しいことになる。日本人ですから。

それでも、やはりこの大会の開催自体への疑念は残り、違和感は最後まで消えないと思います。
今、この時代に、この国で、確固たる理念がない五輪など開くことはなかった。
「矮小な世界の巨大な利権」だけが蠢いた五輪だったと、この先も思い続けると思います。

このような「祭り」をやる国は、私は知りません。

知らぬ他国の夏祭りが、進行しています。

 

以上、あくまで個人の雑感として書き留めました。

その上で、選手、善意の関係者の方々の健闘と健康を祈ります。

利を受けるか、利をとるか。(五輪が歪曲の祭典にならないように)

私は23歳の時から商売をしています。

それまでは学生でしたので、今まで一度も「従業員」として人の下で働いたことがありません。
常に、「店主」でした。

こんなに長い間商売をしてきて、紆余曲折はあったものの、結局今でも小さな店しか経営できていないのですから、経営者としては大した能力が無かったと、自ら認めざるを得ません。

商売にはお金の問題がつきもので、今までもずっと、お金のことで頭を悩ませて来ました。商人は皆さん、そうだと思います。

たとえば、月に100万円儲かりたいとします。

大体これくらい売って、そこから仕入金額を引いて、さらに家賃や人件費や諸経費を引いて、さあ決算してみると、なんだ、30万しか残っていないとか、あれれ、赤字だったとか、よくある話です。平凡な商人としての私の実力は、こんなものです。

ところが、ある種の人たちは、違います。

100万円利益を取ることを最初に設定してしまうのです。
100万円を残すためには、仕入れをこのくらいに、経費をこのくらいしなければならない。売り上げがこれしかなければ、一つ一つの商品にこれくらいずつ利益を乗せなければいけない・・・・と、凡人の私とは逆の計算方式で、強引に100万のお金を残してしまいます。

なるほどなあ、さすがだなあ、と感心します。

こういう方々には、すべてが見えているんだろうな、自分もそうなりたいな、などと思うこともあります。
少なくとも、かなり以前の私は、そう思っていました。

ですが・・・。

何かが足らない。何かが。そう感じています。これではいけないのです、足りないものがあります。決定的に足りないもの・・・それは何か・・。

「お客さん」の気持ちは、どこにあるんでしょうか?
「お客さん」は、利益を吸い上げる対象なのでしょうか?
「お客さん」の気持ちを汲み取ることを第一にできないのでしょうか?

といった、「お客さん目線」の問題。これが欠如していますね。

そして、お客さんにとって、「より良い商品」を提供していくという姿勢の欠如にもつながります。
目指すもの第一が「利益」なのですから、そういう結果になってしまいます。

そして、その根本のところにあるのが、「理想の欠如」ということになるのだと思います。
理想であり、「哲学」の欠如と言ってもいいでしょう。

 

自分は何のために商売をするのか。

それはある「哲学」をもち、そこから生まれる「理想」の状態に少しでも近づくために、物つくりを研究し、精査し、商品化し、お客さんに問うていく。
それがお客さんにとっての理想に近いものであれば、購入していただける。
支払っていただける金額は、あくまで「対価」であり、本来は、作ることにかかった費用と同等であるべきだとも言えます。
しかしそれでは作り手の生活が成り立たないので、生活を維持できる程度の利益を上乗せさせていただく。

利益とは、本来そのようなものであるべきではないでしょうか。

もっといい家に住みたい。いい車に乗りたい。いいものを食べたい。贅沢をしたい・・・・そういう思いは、誰にもあります。もちろん私にもあります。
ですがそれが度を越えてしまうと、人は何かを失います。
その何かとは・・・。
たとえば、知性であり、品性であり、品格であり、人間としての尊厳のようなものかもしれません。
人は、驕奢に走ると、留まるのが難しくなります。

100万円を得ると、1000万円が欲しくなります。1000万円を手にすると、1億円が欲しくなります。
この「アスピレーションコンプレックス」にひとたび陥ると、なかなか抜け出させません。
私もかつては、そのような時期がありました。
ひと時の「バブル時代」というのは、日本中がそのような潮流に覆われた時代でもありました。

まずは、基本に戻らなくては。商売の基本にです。

商売は、利を奪うためのものでありません。

商売の利は、正当な対価として、お客さんから「受けるもの」です。

このブログを書くのに、表現に行き詰まり、何日もかかってしまいました。
途中で間違ってアップしたりもしてしまいました。

その間、オリンピックの無観客開催が決まったり、緊急事態宣言の再発令が決まったりしています。

 

 

さて。

今回の東京五輪は、何のためのものでしょうか?

そこにある理想や哲学はどういうものなのでしょうか?

私はスポーツが大好きです。特に自分で体験してきた陸上競技やボクシングには、熱中します。

それだからこそ、今回の五輪は、本来あるべき姿が極限まで捻じ曲げられた、歪曲の祭典となってしまうような気がします。

願わくば、期間中もその後も、コロナ感染者や重症者、死者が増えずに、テロも起こらないことを。

人々が、正常な「理想」を持てる世界の再構築のきっかけになるように。

非常に困難ではあるでしょうが。

美味しいと不味いの境界線・・・無添加になった理由

食事の場面で一番使われる語彙は、「美味しい」でしょう。

「あの店は美味しいよ」「まずくて食べられたものじゃないよ」というように。

いったい、美味しいと不味いの境目はどこにあるのでしょうか。それを考えてみたいと思います。

たとえば、あるレストランを予約しようとする場合。電話予約の場合も多いと思います。

電話で、「何月何日の何時に3人で行きたいのですが。AコースとBコースとCコースでお願いしたいのですが」と頼んだとします。それに対するお店側の返答が、以下のようなものであったら、どうでしょうか?

1)皆さん同じコースでお願いしたいのですが(一つ一つ別々に作るのが大変なので)

2)同時に3名分出しますが、3つのコースを、同じお皿に一つに盛っていいですか?(盛り付けがたいへんなので)

3)皆さん別々のコースなので、出来上がりに差があります。別々の調理時間をいただきたいのですが、それでよろしいですか。

4)はい、同時にすべて別々の盛り付けでお出しします

 

私見ですが・・・

1はもちろん、論外ですね。
メニューに3つのコースが表示されているのですから、3種類注文されたら、作る義務があります。3種類を作れないのなら、表示するべきではありませんね。

2もよくある例ですが、これももちろん論外です。
メニューの写真等は、多くの場合1人前の盛り付けで撮られていると思います。それが3種類となれば、当然3種類の別々の盛り付けで出さなければいけませんよね。
こういう「一緒盛り」をすると、結果的に一人当たりの量が少なくなるのではないか、などという、つまらない憶測や疑念を生みます。作業が大変だからやらないのなら、最初から店をやるべきではありません。

3も、やはり失格ですね。
3人でお客さんが来て、別々の時間に料理が運ばれて来たとしたら、最後のお客はイライラしますし、先に来たお客も、食べるに食べずらいですよね。こんな気まずい時間をお客さんに提供したら、飲食店としては失格です。

お客さんは、ただ食事をするために来ているのではありません。
食べて、会話をし、感情を共有し、心と心を通わせるために来ているのです。その対価として、原材料の数倍(時に数十倍)のメニュー価格を支払うのです。
それが出来なければ、カップ麺とお湯をお客さんの前に同時に置いてあげた方が、まだましでしょう。
飲食店とは、そういう存在なのです。

 

話は若干逸れますが、コロナ時代の今、「黙食」とか、「マスク会食」とか、妙な提言がなされています。
それも、どうにも科学的根拠が乏しいと思わざるを得ません。どこのどういう飲食店で、どういう形の会食で「クラスター」が発生したのか、それがどれくらいの質量だったのか、そういうことを示されなければ、我々飲食業としては、はいそうですか、と思うわけにも参りません。

幸福な時間と場と、美味のメニューを提供したい私たちを、ぜひ納得させて頂きたいものです。

話を戻します。

上記1から3までは、いろいろな意味で、飲食店としては失格点でした。それなら、4なら、「合格」で決まりでしょうか?

いえいえ、そうたやすい問題でも無いのです。

4の時点では、まだ、メニューを提供しただけに過ぎません。いわば、スタートラインに立っただけです。肝心の「中身」の問題が残っています。

まず、提供したメニューが、もちろんですが、美味しくなくてはなりません。

味の問題は、極めて主観的な問題ですから、「どれくらい美味しい」とかを、数値で図るわけにはいきません。ただ、「すごく強烈な味で美味しい」「素材の味が生きていて美味しい」「家庭的で美味しい」「まろやかで優しい味で美味しい」・・・というような、いわば「味の主張」が為されることが必須だと思います。
人は食の好みがそれぞれですが、どのような内容であったにせよ、そこに、他のものとは一線を画する「特徴」がなければ、価値は半減します。
そして、その「価値」を左右するのが、店や料理人の「哲学」であると、私は強く思っています。

自分や自分たちが提供するメニューで、何を表現したいのか。
何を問いかけたいのか。
何を訴えたいのか。

それがどのようなものであれ、そのような働きかけがあれば、それを食する人の心は動きます。必ず動きます。

それはあたかも、美術作品と同じなのです。

芸術家が全力で描いた油絵や版画や彫刻を鑑賞して、感じ入って感動するように、料理人が全力で提供したメニューで、感動する。

それは時に、その人の人生観すら変えることがあるかも知れません。美術作品ではそれはよくあることですが、「食」でも、あっていいともいます。

そのくらいの力が、「食」にはあります。

ですから、上記1から3まではもちろん失格ですが、4においても、その力を示していかなければ、人の心を動かすことはできません。そこまで出来て、初めてお客さんから及第点を頂けるのではないでしょうか。

僭越ながら、やがちゃんキムチの場合は、可能な限りの美味しさを提供し、食する方に心を和らげていただきたい、という思いがあります。
「真に美味なるものは人の心を和らげる」
それが私の哲学です。
それを追求した結果、自然と「無添加」に行き着いたのです。決して最初から無添加を目指したわけではありません。
最初に目指したのは、食する人の心を和らげることだったのです。

美味しいと不味いの境目とは、実はこれだけの意味を孕んでいます。

たかが食事。されどそれは、人生の重要な場面であると、私たちは肝に銘じて、料理人としての「作品」を提供できるように努力しなければなりません。

 

 

キムチ作りは生き方そのもの

今回は、やがちゃんキムチの店主としての今までの経緯を簡単に書かせて頂きます。

長野県で生まれ東京に移り、小説や漫画が好きな普通の日本人の少年として育ちましたが、どういう運命のいたずらか、私は今、味の世界にいます。

料理の勉強をしたこともなく、師匠もいません。飲食店に勤めた経験も皆無です。もともとは実家を継いだ酒屋の小売店主であり、その前は英文学を学ぶ文学部の大学生でした。
やがちゃんキムチの創業は35歳の時。もう30年前のことです。

副業で経営していたラーメン店があまりうまくいかず、韓国出身のパートさんに作ってもらったキムチを、酒屋の得意先の飲食店に売り始めたのがきっかけでした。

そのキムチの評判が良かったので、新聞広告を出したり、楽天市場に出店したりしたのが20数年前。
もともと辛いものは苦手ですからキムチなど嫌いでした。それはキムチ屋を始めてからも変わらず、自分ではほとんど食べませんでした。
とにかく、売れればいい。売ってお金が入ればいい。どんな売り方でもいいから、売れればいい。その一心でした。

ですが、韓国のおばさんも帰国していなくなり、公私ともに失敗を繰り返して千葉に移ってから、考えが変わりました。というより、変えざるを得なくなりました。

強引に作り、やみくもに売っても、誰にも喜ばれない。自分にも喜びなどなく、ただ、売り上げがいくら上がったか、いくら足らないか、そんなことばかり気になって、幸福感や満足感や充実感などという言葉とは無縁の世界にいました。

そのうち、とにかく、売り上げが少なくともいいから、自分にとってもお客さんにとっても、「嬉しいもの」を作って売ろう。そう思うようになりました。

それならまず、キムチでは不可能とも思われた、「無添加」に挑んでみよう、と決めました。キムチは、辛い漬物です。ただでさえ、漬物はアミノ酸まみれの世界。そこに辛さが加わったキムチで、「自然の美味」を」無添加で感じてもらえるのは、ほとんど不可能だと思われていました。
無添加のキムチと称するものもあるにはありましたが、自分には食べられたものではありませんでした。

無添加にするのは簡単です。
アミノ酸等の添加物を入れなければいいだけの話で、だれでもすぐに無添加にできます。
しかし、それで美味を実現し、保存性も兼ね備えるのは、至難の業です。

工夫を凝らし、無添加化して売ってみました。
多くの方から「まずい」と言われました。
卸していた飲食店のお客さんには、「客の体の事などどうでもいいから、化学調味料をバンバン入れて作り直せよ!」と怒られたりしました。

でも、一旦無添加化してからは、二度と有添加には戻しませんでした。それをしたら、商売をやっている意味がなくなります。私にとっては、商売をやめるということは人生をやめることに等しいです。
やったのは、天然素材を増やすこと、配合を工夫すること、和食や中華の技術を応用すること、旨味の科学を勉強すること・・・等々です。
言ってみれば、現場で自分で、料理学校を開いていたようなものです。それも、お客さんをある意味実験台にしながら。
「おたくのキムチはいつも味が違うね」とはよく言われましたが「前より美味しいね」とも言われました。ある意味で本望でした。

キムチの作業の第一歩は塩漬けです。
それなら、無添加で美味しい塩を自分で配合し、それで白菜を漬けてみようと考え、東日本大震災の年に、一つの結論として、「頂」という名の白菜キムチを出しました。
それは大好評で、10年後の今に至るまで、うちの看板商品として活躍してくれています。

その後、唐揚げやカレー、マーボ豆腐、チャーシュー、弁当等々に扱い商品網を広げられたのも、キムチの無添加化で呻吟した経験があったからです。こうした総菜類も、もちろん無添加ですが、関連業種の人なら、それがいかに困難なことであるかは分かっているでしょう。

料理学校に行ったことはありませんが、学校ではたぶん無添加技術を教えてくれないし、教えられる人もいないでしょう。
何故なら、たかがキムチや総菜ですが、それは、すでに「技術」の問題などではなくなり、「生き方」の問題になっているからです。現場で苦しみながら、商品にだけは噓をつくまいと、固く思ってきた結果です。

料理は現場で「実践」したり「味わう」ことが先決の世界です。座学は関係ありません。理論も参考程度にしかなりません。
結局は、食べて味わうことでどのような「幸福感」を感じられるか、それがその人の人生の状況にどう働きかけるか・・・つまりは、生きていく上での大きな「力」になってくれるのが、「食」の世界なのです。

「頂」から、10年。

その後の総菜の経験を生かし、さらなる進化のキムチを作りましたが、ネーミングに悩みましたが、それを「頂・その先」としたのは、以上のような経緯があるからです。

やがちゃんキムチは、社是として、「有料広告」を一切しません。(無償の取材や紹介報道はお受けします)
それから、無理な宣伝やSNS活動もしません。
SNSでしようとしているのは、今何を考え、何をしているか、何を見て何を感じたかを、率直に書くことです。
ご反応も、気にしないようにしています。

「売らんかな」の書き方をすることには、避けるようにしています。

商品は、それ自体が、少しずつ少しずつ、お客さんのご協力で、広まっていくべきもの。
「頂」も10年間で、そういう定着の仕方をしてきましたし、「頂・その先」も、そうなってくれると信じています。

私にとって、商売とは、自分で自分が「良い」と信じるものを作り、お客様にお渡ししていくことです。
これからもそれを続けていくつもりです。

それでもオリンピックは必要か?

私が子供時代を過ごしたのは東京足立区の東部で、環状7号線の「大谷田交差点」がすぐ近くにあります。

この環7は未舗装の砂利道で、「十三間道路」と呼ばれていました。1間(けん)が1.8メートルですから、23メートルもの幅のある大きな道路です。

この環7が、近くの「綾瀬川」で分断されていました。橋を架ける予定の場所に、通称「バナナ工場」という黒い大きな建物があり、そこが立ち退かないからだ、という話を聞いていました。黒い建物の中では、輸入のバナナで何か製品を作っていた工場だったらしいです。

ところがその工場が突然立ち退いて、「十三間道路」が舗装されて開通しました。そして、町にはうれしい噂が飛び交いました。

「オリンピックのマラソンが十三間道路を走るらしいぞ! 大谷田交差点がその折り返し地点になるぞ! だから、バナナ工場が立ち退かされたんだぞ!」と。
昭和39年のことです。
私たち子供は皆その噂を信じていました。

小学校3年生だった私は、親にある少年向けの本を買ってもらいました。オリンピックの歴史が書いてある本で、古代五輪のマラソンの由来や、歴代の日本選手の活躍の様子も書いてありました。何度も何度も読み返し、文章を暗記するまでになりました。4年前に、ローマオリンピックでエチオピアのアベベ選手が、裸足で走って優勝した様子も、目の前で見たかのように心で描けました。

私の家は下町の小さな食品店です。
ようやく黒電話が入り、近所の人たちが電話をよく借りにきました。

そしてある日、電話以上に待ちに待ったものが現れました。
テレビです!
オリンピックを見るために、親がなけなしのお金を出して買ったのです。
店も居間もつながっていた小さな家ですから、買い物に来たお客さんや、買い物もしない人までもが、家の中に入って、テレビを見にきました。
力道山のプロレスの時や、美空ひばりが出る歌番組の時などは、人がたくさん押しかけて来ました。。
10月についに始まったオリンピックの時は、家じゅうが大変な騒ぎになりました。
一人息子の私は、それがうれしくてたまらなかったです。
としちゃん、としちゃんと近所の人にかわいがられ、すし詰めのような人と人の間から、真新しいテレビの画面で、開会式や、三宅選手の重量挙げや、東洋の魔女のバレーボールに熱狂しました。

そして、あのマラソンの日。国立競技場のスタートの様子を見てから、私は、友達と一緒に、大谷田交差点に走りました。
「アベベがやってくるぞ! アベベを見に行こうぜ!」
「アベベはまた裸足かな?!」
「大丈夫だよ。もう十三間道路は舗装されてるから、裸足でも大丈夫だよ!」
などと叫びながら。

ところが、着いてみると交差点には誰もいません。日の丸の旗を持つ人もいません。
車が盛んに行きかいますが、オリンピックのマラソンが来る雰囲気ではありません。
おかしいな?と思い、急いで自宅に帰ると、アベベは東京の逆方向の府中の道路を走っていました。戻ってきた私たちに、大人たちが大笑いでからかいました。
「アベベはいたかい? 速かったろう?」

その日、アベベは独走で優勝しました。靴を履いていましたが、世界新記録で、ローマに続く二連覇です。
日本の円谷選手も、最後の競技場内でイギリスのヒートリーに抜かれましたが、見事に銅メダルを取りました。国立競技場に、初めて日の丸の旗が上がりました。それをテレビで見た私たちは、大人も子供も興奮しました。

 

この1964年の東京五輪は、大人も子供も、日本中が熱狂して観覧しました。あの五輪を境に、高速道路や新幹線が通り、日本の高度成長が一気に進み、世界の先進国の仲間入りをし、私たちの世代は、青春時代に突入していったのです。良いにつけ悪いにつけ、日本の国が一つにまとまっていました。騒々しく喧々諤々しながら、それでも結局同じ方向を向いて、進んでいました。

政治では保守と革新が激しく対立し、日本中で公害が発生し、自然と国土が壊されながらも、それでも日本全体が「成長」の同じ方向を見ていました。
「もう戦敗国ではない」「アメリカやイギリスを抜くんだ」「世界に向かって扉を開こう」「今日よりも明日、明日よりも明後日のほうが、より豊かになるはずだ!」と信じながら。

57年経って、今。

私は65歳です。東京を離れ、千葉で小さな商売をしています。
東京にも千葉にも、未舗装の道路は既にありません。
電話は一人一台持っていますし、映像で世界中の様子を見ることも出来ます。世界中で何が起こっているか、その場で分かります。
人がすし詰めの状態になってものを見たり、奪い合ったりすることもほとんどなくなりました。

一方でコロナという厄介な風邪が流行り、人が集まることは避けられてます。

生活に必要なインフラはとうに出来上がっています。
若い人や子供が少なくなり、町には老人の姿が目立ちます。
外国語がしゃべれなくとも、外人としゃべれます。
原子力発電所が何か所もできて、そのうちの一つが、10年前の大地震と津波で破壊されました。

都心は超高層ビルが林立しています。
タワーマンションという巨大な集合住宅が人気を集めてます。
高速道路も地下鉄も、これ以上必要のないほどに張りめぐされました。

そんな中、コロナで人と人の接触が避けられています。

外国から人が入ってこれません。日本からも簡単には出ていけません。
それだけではありません。
家族が入院中の人は、病院に見舞いにも行けません。
介護施設に入ったおじいちゃん、おばあちゃんに気軽に会いにもいけません。
病院で危篤になっても、駆け付けることもできません。手を握ることも、最後の声をかけることも出来ません。

それがたった一人の配偶者でも、親でも、子供でも兄弟でも、触れることすらできません。
亡くなっても、葬式すら出せません。

若い人同士が愛し合い、新たな家庭を作ろうと決めても、その結婚式すら開けません。
大人になる大きな節目の、20歳の成人式すらなくなりました。

心から愛する人との、人生で一番大切な出会いや別れの儀式すら、出来ないのです。

そしてその憎きコロナは、まだ感染者を増やしつつあります。

ワクチンが出来たといっても、一般の日本人は今年中に受けられるかどうかも分かりません。特効薬ができるのは、まだまだ先の話です。

そして、問います。

今東京でオリンピックを開くことは、こうした、人としての大切なことすら出来ないさなか、許されることですか?
今、どうしてもやるべきことですか。

何のためのオリンピックですか。

誰のためのオリンピックですか。

オリンピックとは、いったい何ですか?

 

私は東京五輪が決まった当初から、成熟した社会の日本で、しかも灼熱の真夏に行われることに懐疑的でした。幾度かそれは発信しています。コロナ禍の中、その思いは決定的に強くなりました。

少なくとも今、オリンピック開催より優先しなければいけないことが、山ほどあるでしょう。

今、最後に問いたいです。

本当に東京オリンピックは必要ですか?

 

 

 

 

 

 

 

涙はどこへ行った

あなたは、最近いつ泣きましたか? 人前でです。

中学一年生の夏休みに、私は陸上部の練習で、校庭を走っていました。暑い日でした。
その時、校内アナウンスがあり、「陸上部の矢ケ崎君、すぐ職員室に来るように」と言われたのです。
慌てて職員室に行くと、電話の受話器を渡され、叔母の声が聞こえました。「お爺ちゃんがね、危ないの。すぐに病院に来なさい」

祖父は、その日の朝は元気だったのです。しかし、私が飛んで行った病院のベッドで、ちょうど息を引き取るところでした。
女医さんが祖父にまたがり人工呼吸を試みていましたが、それも終わり、「ご臨終です」と言いました。
心筋梗塞でした。

その時です。
ベッド脇にいた私の父が私たち家族に背を向けて窓に向かい、顔を上向きにして、涙をハンカチで拭いたのです。
そしてすぐに向き直り、先生に「お世話様でした」と頭を下げました。
その時の光景を、50年もたった今でも、私は思い出すことが出来ます。
それが私が体験した最初の肉親の死で、初めて見た父の涙でした。

次の体験は、ちょうど10年後。その父の死でした。
年末の寒い朝、父もまた、前の日まで何も無かったのに、心筋梗塞で急死しました。
同居していた姉の夫が人口呼吸を必死にしてくれましたが、息は戻りませんでした。
私は茫然と父の枕元に座り込み、動けませんでした。背後では、救急車を呼び、あちこちに電話したりと、家族があたふたと動く音が聞こえていましたが、やがて急に静かになりました。
姉の夫が襖を閉めて、私と父を二人きりにしてくれたのです。
無言で父の顔を見ていた私は、急に涙がこみ上げてき来て、堰を切ったように嗚咽しました。
ほんの、数十秒だったと思いますが、激しく泣きました。
それが二度目の肉親の死でした。

三度目は、それから35年後。母の死です。
店の商売があるから普段めったに地元を離れない私が、その秋の日に限って大阪城のすぐ傍のホテルに居て、夜開催されたある会合に参加していました。そこに妻から電話があり、入院中の母の死を知らされました。妻は、「お母さんは穏やかな顔だったよ」と言ってくれました。
会合の場を抜け出し、私は大阪城のお堀の前まで行き、誰にも分らないように泣きました。老いても私が心配を掛け通しで、念願の海外旅行にも連れて行けずに逝かせてしまった申し訳無さや、それでも、常に私を守ってくれた母の大きさや優しさを思い、泣いたのです。泣けて泣けて仕方が無かったです。

私の世代は、「男は親の死に目以外には、人に涙を見せてはならない」と言われた世代かもしれません。「抑制の美学」ですね。

このように私も、肉親の死で泣いてきました。それは、心から悲しかったからです。
祖父の死で涙をぬぐった父は、大正生まれの陸軍の兵隊上がりで、「抑制の美学」を教えられてきましたが、さすがに自分の父の死では、泣いたのです。あの涙は、13歳の私から見ても、純粋に美しいと思われた涙でした。

感情を表に出すのは、「抑制の美学」からは、よくないことかもしれません。
もちろん、やたらに泣く男は、「女っぽい」「女々しい」などと揶揄されるように、みっともいいものではありません。

しかし・・・

しかし、抑制したからと言って、感情が沸き立たないわけでありません。
泣かないからといって、冷たいわけではないのです。
それは「我慢」をしているだけであって、人目をはばからない場所であれば、どんな男でも、愛する人の死に際して、号泣するはずなのです。泣かないことと、感情を持たないことは、関係がありません。

ですが、最近の世にあふれる、無表情、無感情、無感動、冷淡、知らぬふり、等の顔、顔、顔・・・はどうでしょうか。

コロナでマスクをしているせいもありますが、思い切り笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしている人を見る機会が、本当に少なくなりました。
これはいったい、どうしたことでしょうか。

それは少なくとも、「抑制の美学」などではありません。

一言でいえばそれは、「感情の欠如」なのです。

「汚れていないもの」「穏やかなもの」「清潔だと思われるもの」「感情的にならないもの」「喜怒哀楽を表さないもの」等々が、尊いとされる風潮が、今の世に広まっています。
そして、心の奥底を表現することが、「汚いこと」「恥ずかしいこと」「避けるべきこと」などとされがちなのです。

本当は泣きたい、笑いたいが、人前だからそれを忍んで抑制する、といったこととは違います。

云わば今の世の風潮は、泣くこと自体、笑うこと自体を「いけないこと」としてしまうのです。

これでは、人は人でなくなってしまいます。

人が人である所以は、感情を、心持を、喜怒哀楽を、精いっぱい表出出来ることにあると言っても過言ではありません。
それをするなというのは、人であることを捨て去れということに等しいのです。

あなたは、最近いつ泣きましたか?

人前で。

あなたの心の本当の姿を晒せる日が、早く来ますように。

清濁併せ呑む

コロナ禍で、「感染症」に関する関心が高まりましたね。
テレビでも連日、いかに飛沫感染や接触感染から身を守るかについて、専門家のコメントが伝えられています。

とにかく、ウィルスの存在が疑われるものには、近づかない、吸わない、触らない…というのが基本のようです。

確かに、それが完全にできれば、感染のリスクは全く無くなるわけですね。完全にできれば、です。

ですが、常に違和感を感じることですが、このような、「完全なる対策」をすることと、人間としての「人間らしい」生活が両立することは、まずありえません。人間らしさを捨てなければ感染が防げないというなら、その対策にどんな意味があるのでしょうか。

もちろん私は、どこに行くにもマスクはしますし、通常唱えられているような「対策」はしています。その上で思うのですが、「ウィルスから完全に離れることよりも、万一ウィルスが体内に入ってきても、コロナに感染しないという「免疫」の強さを養うことに力点を置いた方がいいのではないか」、ということなのです。

これは食中毒の話ですが、よく、高級ホテルのバイキング料理で集団食中毒が起きたりします。
それは、徹底的に清掃、消毒した会場に、なんらかの原因で菌が持ち込まれると、ほとんど無菌状態になった会場で、一気にその菌が繁殖するから、と聞いたことがあります。

つまり、徹底的に消毒をすると、普段は存在している「常在菌」までもがいなくなり、侵入する悪玉菌の邪魔をしてくれないから、ということなのです。綺麗すぎるのは、却って感染のリスクを増やすということなのです。

もしこの見方が合っているのなら、そして新型コロナにも当てはまるのであれば。これは由々しきことです。感染リスクをなくすために消毒をすると、逆に感染力が高まるということなのですから。

実際はどうであるか、私にはわかりません。

話は飛ぶようですが、人間そのものについて観察を続けてみると、同様のことがあるのは確かです。

過保護で無菌状態で育った者は、刺激に弱い。「悪いもの」への免疫が無いからです。

成功体験ばかり持つ者は、いざ失敗してみると、過度にへこんでしまう。あるいは、失敗そのものを認めないで、原因を他者に押し付けたりする。これも、よく見られることです。

理想ばかり唱える人は、異論をまったく受け付けない。または、異論を言う人を遠ざけてしまう。自分の信じる理想や理論ですべてが片付くと思ってしまう。そんな立派な理論や理想があれば、とうに世界は平穏に収まっているはずなのにも関わらず、です。

等々、ウィルスの件とはかけ離れていますが、全く無関係とも言えないのではないかとも思います。

ともあれ、ウィルスは、間もなく始まるワクチン接種で、何とか駆逐しましょう。

そして、人間そのものは、

★清濁併せ呑む★

という器量を持ちたいものです。最近、そのような「大きな人」をあまり見かけなくなったと思うのは、私だけではありませんね。

もちろん、ウィルスに対する免疫力が増すとまでは、申しませんが。

 

 

アフターコロナを生き抜くために

2021年ですね。
もう1月も10日を過ぎました。遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

昨年のほとんどの時間は、我々は「コロナ」に翻弄され続けました。今まだ、この奇妙なウィルスとの戦いの最中に居ます。2度目の「緊急事態宣言」が発令されたばかりです。

その中で、飲食業や地方の観光業などは、とても大きな影響を受けています。
飲食業とかかわりの深い、キムチ製造業もまた然りで、うちの同業者の何件かが閉鎖した、という知らせも入っています。ことは、深刻です。

その中で、先日偶然お邪魔したある和食旅館の繁盛ぶりに直面し、感じるところがありました。

その旅館は、千葉県君津市の海近くにある、「わかな」という、比較的小さな旅館です。

歴史は古く、以前は海釣り客相手の「釣り宿」だったそうです。君津には温泉は出ず、工業地帯となった今では釣り船も出ません。この宿は、そういう時代の変遷に対し、ある思い切った対策で今、堂々と生き残っているのです。

それは、「極上の食事」と「貸し切り露天風呂」に特化した宿、ということなのです。

食事ですが、驚きの内容でした。素材、味つけ、盛り付け、演出・・・どれをとっても最上級であり、十分過ぎるほどの満足感がありました。味についての詳細は控えますが、とにかくレベルは間違いなく「最上等」のものでした。

そして、貸し切りの露天風呂です。
最上階に、2~3名用の5つの露天風呂があり、無料で自由に借り切れるのです。
そこで夜風を浴びながら、風呂に入る。温泉ではありませんが、麦飯石を使った「健康風呂」で、肌当たりは優しいお湯です。
目の前は、東京湾。遠く、富士山の影もくっきり見えます。
家族や恋人同士でくつろげる、とてもいい空間です。

飲食業や観光産業は、「食べる」「寝る」ということを産業化したものですが、ただ食べて寝るだけでは、「飯場」に過ぎません。
人は、生きるためだけに食べるのではなく、休むためにだけ眠るのではありません。
そこが人と動物の違うところです。

人は時に、美味なるものを食べ、癒しの空間でくつろぐことで、新鮮な感動や驚きを感じるのです。そして、明日から生きる活力を得る。

そのために、宿に泊まり、食事を摂るという、「非日常の空間と時間」にお金を払うのです。

非日常の空間と時間には、「新鮮な驚き」がある必要があります。
決して、高価なものや華美なるものが必須であるということではありません。
質素なら質素なうえで、それでも何らかの「感動」「驚き」「喜び」といったものを、使用者に感じさせるものでなくてはなりません。

ですから、私の持論でもありますが、すべては、「芸術作品」と一緒なのです。

味わう人、くつろぐ人が、芸術作品を鑑賞して感動をするということと同じ意味で、食事も宿もサービスも、単なる「商品」ではなく、「作品」であるべきなのです。

ここまで出来てこそ初めて、その「作品」たちは、世に受け入れられ、それ相応の「報酬」を受け取る資格が出来てくる。そう私は考えています。

この君津の旅館「かわな」で、あらためてその思いを強くしました。

もちろん、食に関しても、サービスに関しても、そのレベルに達することはたやすいことではありません。

当然ながら、長年の経験と研鑽が絶対的に必要となります。
おいそれとできることではないのです。

しかしながら、そうであるからこそ、今コロナ禍で苦しんでいる日本中の「ベテラン職人」達には、まだまだ生き残る余地があるはずです。
ここで、まずは踏ん張る。
いろいろと補助や支援の策もでてきていますから、遠慮なくそれを使って、まずは生き残る。

そして、今までの長い経験を活かし、さらに、ネットなどを活用して、今の世に受け入れられる、ハイレベルの「味」や「サービス」をさらに作り出す。
それが出来る技は、ベテランにこそ備わっているはずです。

現場を知る者こそが、生き残らなければならない。今までの苦労を、今こそ生かさなければいけない。格好の良い理論やシステムなどに負けてはならない。
勝つのは、泥と汗にまみれて苦労してきた、我々職人たちでなくてはならない。何故なら、我々こそが、感動を「創る」行為をするものだからです。我々は、嬉しい驚き、感動の喜びを作り上げる職人なのです。

もうすぐ、コロナの闇は明けます。ワクチンも出来ました。
ですが、アフターコロナの世界では、人々の選別の目は一層厳しくなります。
今までと同じレベルでは、相手にされません。必ずそうなります。

ですから、何としても、「感動」を生む作品を作らなくては。

強くそう思います。

 

 

 

 

 

 

お客様と密になれ(コロナ禍が生んだ、本来のコミュニケーション)

コロナを契機に、お店に関する「口コミ」の形が変わってきています。

飲食店の場合も、広告が入る「食べログ」等の既製大型のものではなく、フェイスブック等で地域の市民が地元のお店を自発的に紹介しあうローカルなSNSが増えています。当然無料ですが、その影響力たるや、絶大なものがあると思われます。

地元で実際日々利用している人の自発的発信だから、信用度も注目度も高いです。
アマゾン等でよく問題となる「サクラ」的な投稿ではなく、リアルな店舗でリアルな消費をした、実在度100%の投稿だからです。

それと呼応するように、当店あたりの「通販」の場面でも、従来型の一方通行のネットでの「自動販売機的」な売り方より、お客様とのパーソナルな交信が確実に増えています。
ネットではなく、古典的な「電話注文」も増えていて、お客様の声を直接お聞きし、ご質問を受け、ご提案をし、商品の販売に至る形が蘇っているのです。

最近、店の側がインスタグラムの画像投稿やユーチューブの動画投稿を通じて商品販売をしようとする動きもありますが、そのようなもの以上に、実際のお客様の生きた声を通じてコミュニケーションを取る方がはるかに効果的であることは明らかです。

コロナがもたらした、いい影響の一つだと思います。

密になるな、ディスタンスを取れ、オンラインでつながれ、等々の暗黙の「同調圧力」が今世の中を被っていますが、その反動でもあるかのように、お客様と店との「密接な」つながりが見直されているのです。
いや、間違いなくこれは、反動でしょう。

人は、もともと群れて、触れ合い、顔を突き合わせて話し合い、自分の気持ちを伝えあう存在です。
コロナでそれを制限するのがあたかも「正義」のような風潮が出来ている中、こうした本来のつながり方が復活しているのは、間違いのない事実です。

我々小さな商人には、それは特に言えることです。
ものをこの手で作りお売りする立場から言うと、嘘偽りなく、一生懸命いいものを作り続ければ、お客様や身近な方がそれを強く紹介してくれます。

言ってみれば、口コミの強力化です。

お金を払って自社製品のアピールを絨毯爆撃のように「上から」繰り返したり、「一方的に」ネット広告で強引にホームページに誘導したりする必要はありません。

上から、一方的に、ではなく、「お客さんが自発的に」、「お店とお客さんが相互にフラットに」という動きこそ重要なのです。

お店が自分で「これはいいよ!」と発信することよりも、お金を払ってそれを利用してくださったお客さんという「他者」が、無償で自発的に「これはいいですよ!」と言ってくれた方が、はるかに効果的であることは、言うまでもありません。

これこそ、純粋なる「口コミ」の発生なのです。

そして今、そのような純粋な「口コミ」が実際の販売につながる割合が、コロナ禍の中で急速に増えているのです。

口コミが発生してくれた商品を売るのは、容易です。

上記のように電話注文も来れば、ネット知識が無くてもすぐに売れる「メルカリ」のような場でも売れるし、飲食業でしたらMENUでネット注文も受けられるし、Uberや出前館でデリバリーも出来るし、ネット通販も「BASE」のような仕組みで、無料で世界相手に売ることも出来ます。
お客様の側から「いい商品だ」と太鼓判が押された商品は、もう、売り方はいくらでもあるのです。これからも次々にいいシステムが現れて来るはずです。

以前のように、「SEOが出来ていなくてはだめだ」とか「食品は楽天で、スペック商品はアマゾンで」とか、「動画や音声で誘導しなくてはだめだ」とかいうような「セオリー」は、もう全く通用しないようになって来ます。

そのうち、SNSとショッピングサイトの垣根も無くなると思います。

だから、「いかに売るか」という発想自体がもう必要なくなり、「いかにいいものを作り続けるか」、の方がはるかに重要になると思います。HOWよりWHATの時代に急激に向かって来たのだと実感しています。

メディアでもない、広告会社でもない、一般のお客さんのほぼ全員がスマホを持っていて、お店を実際に利用して「取材」し、画像を撮り、自由に感想を発信するのだから、それによるいい口コミを広めてもらうためには、「いいものを作る」ことが一番の近道なのです。逆に悪い口コミもすぐに広まります。

もう、売り方のコンサルテーションは要りません。
それより、いい商品を作る「職人」の我らの「腕」が今まで以上に問われるという時代に入ったのだと思います。

そう、コロナの影響で、「職人の時代」が早くやってきたのです。

コロナも、あながち悪い影響だけ残したわけではないのです。もともと不要でありながら膨らんだ様々の要素が一気にはがされた、という表現も出来るでしょう。

本当に世の中の人が必要とするものの情報は、テレビやマスコミにはありません。
Youtubeの動画の中にもありません。
何故なら、こういったものは「売る側の立場」から作られた情報だからです。

本当に必要な情報は、商品そのものの中にあり、それを実際に体験したお客様の経験談の中にあります。
お客様の側から発信される情報こそ、宝物なのです。

「あずましや」の焼き鳥の向こうに見えるもの

『水戸で高校出てから、移動販売の焼き鳥屋に勤めたんです。10年間。スーパーの駐車場とか、花火大会とか祭りとか、ずっとやりました。10年間。
焼いてたのは、中国産の冷凍の鶏です。鶏肉の入った段ボールを見られないように隠してました。
売れたら売れたで歩合でいろいろ取られるんで、あんまり儲からなかったです。それでも10年やったんで、もう独立したいと思って、そこを辞めて、埼玉の焼き鳥の師匠に弟子入りしたんです。1年間修業しました。最後まで、焼かせてもらえませんでしたけど。

それで、この場所を紹介してもらって、借りたんです。ちょうど3年前です。最初の1、2年は、全然売れなかったです。それでもここのところ売り上げが伸びてきて、なんとかやれそうだなあ、と思っていたところで、やがちゃんさんのキムチの噂を聞いて、女房に「買いに行こうぜ!」って言って、その日に行ったんですよ。去年の秋でしたよね。土浦から来ました、焼鳥屋です、と自己紹介したら、やがちゃんさんが、遠いところ悪いねえ、って言ってくれたの、よく覚えています。それで、食べてみて美味しくて、店で出したらお客さんが「うまいうまい」と褒めてくれて、
あの、物まね芸人で有名な方がうちの常連さんなんですけど、こんな旨いキムチやチャンジャは他にないって、どこのキムチ屋かって聞かれたから、南柏のやがちゃんキムチですって言ったら、奥さんが千葉の方で、やがちゃんさんのこと知ってたんですよ。

とにかく、飲み物で儲ければいいから、焼鳥はいいものを安く出そうって。遠くから食べに来てくれる人も増えて、食べログとかでも評判がいいらしくて、これで何とかやっていけるなって、女房と言ってたんですよ。今、僕は32になりました。女房は昨日の土曜に忙しすぎたんで、今日は休ませています。

ところが、コロナで。
店は開けてやってましたけど、4月5月なんか、1日一人か二人しか飲みに来るお客が来ない日があったりして。テイクアウトで焼き鳥丼やりましたけど、ほとんど原価ですから、もう、自分たちの飯代が出ればいいくらいの気持ちでいました。でも6月に解除になって、お客さんが戻ってきましたね。

とにかく田舎なんで、悪いうわさが広まるのは早いんで、いいものを出すことに努めてるんですよ。焼き鳥のタレは、壺に半分くらい師匠から最初にもらったものに、ずっと継ぎ足し継ぎ足しで作って来ました。
鶏は筑波の生の鶏です。塩も、モンゴルの塩に色々味をつけて使っています。とにかく、新鮮な肉を毎日仕入れて、炭火でお客さんの目の前で焼いて、美味い美味いって言ってもらえるのがうれしくて・・・・

もう、それだけですよ。出来る限り、最高のものをたっぷり食べてもらいたいです。それだけでよね』

・・・・・・・・・

茨城の荒川沖の町に入った。駅から歩いて10分ほどの、真っ暗な田舎道の辺に、その焼き鳥屋はある。「あずましや」という名前だ。「ほっとする」という意味の方言の「あずましい」という言葉からつけたという。

開店3年経ち、4年目に入った。店主、まだ32歳。朴訥な茨城弁で恥ずかしそうに喋って、いろいろ話を聞かせてもらい、そして、今まで僕の人生で食べた中で、間違い無く最高の焼き鳥の数々を食べさせてもらった。

モモ。砂肝。ネギ間。皮。どれもが、柔らかい。もちろん、焼けている。ジューシーそのもの。今まで焼き鳥はタレで決まると思っていたが、違う。味なんかつけなくてもいい。新鮮な肉をこれだけ上手に焼けたら、それだけで、もう十分だ。
その焼き鳥が、一串わずか100円から150円。

レバー。牛ハラミ。牛タン。こういうものが一串350円。
もう、焼き肉専門店に行かなくてはいいのではと思うほど、旨い。

肉がいい。焼き方がいい。タレがいい。塩がいい。文句のつけようがない。

実に、実に美味かった。

この場所で繁盛するには、最高の味を、地域の人に受け入れられるそれなりの値段で出すしかない。それを、弱冠32歳のこの青年が、やってのけている。32歳と言っても、もう15年の経験を持つ、焼鳥の達人だ。とんでもない、超一流の焼き鳥職人だ。

都心で、かつて何度も「匠の技」などと賞される焼き鳥店に行った。バブル時代やバブルがはじけてからも、そういう超高級店で、1本1000円近くもする串を有難がって、拝むようにして食べたものだ。
そういう自分の過去が、おかしくなった。
都心で「一流店です」と、土地と店名と、かなりの虚飾に彩られた「味」に、いったい今までどれだけ無駄な金を払ってきたことだろうか。バブル以前のことまで入れたら、それこそ、天文学的な無駄遣いを自分はして来た。

茨城の荒川沖に、焼鳥一筋15年焼き続けて来た、32歳の素朴な青年がいる。3年経っても、店は新築のように美しい。焼き鳥の煙を吸い続けるフードのステンレスはピカピカしている。

虚飾に染まらない、今の彼は、ザ・焼鳥屋だ。

都心の一等地で、コロナを境に苦境に立つ飲食業の方々が長い間掛けて見失ったものを、32歳のこの彼は、今は100%持っている。今、彼は「旬」だ。

何か、数十年前の、汚れない頃の僕自身を思い出してしまった。
行け、行け、このまままっすぐに行ってくれ。
目の前で焼き鳥を焼き続けるその姿を見て、煙の向こうに、失ってしまった自分の姿を見ている錯覚に捕われた。
もし、飲んでいたのがノンアルコールでなかったら、口に出して言っていたかも知れない。
「お前、おい、曲がるなよ! 曲がっちゃだめだぞ! このまま行けよ! このままだぞ!」と。

どうか、このまま焼き鳥道に励んでくれるように。
そう祈らずにいられない、身に沁みる美味しさでした。

食とは、心です。
これを失ったら、崩れる。
今、寸分も狂わない青年が、茨城の荒川沖の町中で、「あずましや」の看板を掲げて焼き鳥を焼いています。

意思さえあれば道はできる

やがちゃんキムチの店舗で最近顕著な傾向があります。

メインの白菜キムチやサムゲタン等のほかに、ラー油、カレー、マーボ豆腐、スンドゥブ等の「サイドメニュー」にも人気が波及して、すぐに売り切れてしまうのです。
本来なら、中華屋さんやカレー屋さんが出すものですが、キムチ屋のうちが作るものが支持される・・・。理由は何だろうかと思いますが・・。

一つには、やはり、「美味しい」ですね。
そして同時に、「無添加」であることでしょう。

日本の中華屋さんやカレー屋さんで、アミノ酸その他の添加物と使わないところは稀有ですね。
何故使うのかといえば、間違いなくそれは「経済性」故です。
素材の味だけで満足な味を出すには、相当の濃度を伴わなければなりません。
そうすると、途方もない原価がかかるからです。

そこを、使うのです。
素材の味の特性や味わいの方向性をうまく組み合わせて、使うのです。
出来ないことはありません。
実際に当店は、すべて無添加で、キムチも、中華製品も、カレーもご好評をいただいています。

うちのメニューの特徴は、ヤンニョムジャン、コチジャン、オリーブ七味、醤油だれ、にんにくだれ、味噌だれ等の数種のメインのタレを自由自在に組み合わせて、新たな味を作れることです。
そのすべてが無添加ですから、出来るものも全部無添加です。

どの製造にも、一滴の水も加えない濃厚なものですから、味のメリハリがはっきりしていて、他のものとの差は歴然として来ます。

このことはお客さんが一番よくご存じで、これらのタレ自体を買われる方が最近は急増してています。うちのお客さんは、グルメレベルが高い方が多いのです。

こういう味をお出しして、少しずつ、少しずつ、じわじわとお客様が増えてくださって来ている状況の中で、当店は一切のPRや広告などはしていません。これは、社是です。
在庫処分や売り上げ確保のための安売りもいたしません。
するのは、無償で「おまけ」を出したりすることや、感謝の意味でたまに「増量」をすることくらいで、これも、うちの味をもっとご存じ頂きたい、という動機からです。

そんな当店にも、いろいろな営業や勧誘電話がかかって来ます。
ネットの大手モールなどからも頻繁にお誘いがあります。
ですが、全部お断りします。

うちは、うちだけの「やがちゃんキムチ」であって、仮に大手モールの傘下に入ってしまえば、その中の様々な縛りやルールによって、そのコンセプトが揺らぎます。
したくないセールを要求されたり、ポイントがどうの、ランキングがどうの、という話になります。
独立して営業する店舗にとって、わざわざネットのモール内で同業他社と競うことくらい、無意味で嫌なことはありません。ランキングを勝手につけられたり、賞を競ったり、とんでもない話です。
当店のお客さんは、うちの「やがちゃんキムチ」が好きで召し上がる。ザッツオール、です。それ以外の物事は全く望みません。

そんなことはありえませんが、仮に「ミシュラン」の星をくれると言われても、お断りします。ミシュランは、うちのお客さんではないからです。

どんな時にも、道はできます。
意思さえあれば、自分の前に道はできるのです。
その道を歩くだけ。固くそう思います。コロナの時代でも、同じでしょう。

話は全く変わりますが、学生時代の専門は「シェイクスピア」でした。

シェイクスピア劇の最高峰は4大悲劇などとよく言われますが、人生を生きる上での「深み」を考える最高峰劇と言えば、迷わず、「Measure for Measure」 邦訳名「尺には尺を」をお勧めします。

人間の不条理な裏表の真実を描いた「問題喜劇」で、これを理解すれば、これからの「コロナ時代」にどう生きるべきかも見えてくるかもしれないです。

和食かんざに脱帽

美味しいものは、確実にある。

6月某日、千葉県野田市の「かんざ」という和食のお店に行きました。

前の週に行くつもりで予約電話を入れたら、「満席で申し訳ありません」と丁寧に謝罪をしていただき、1週間待って、ようやく席を確保。

野田の市街からかなり離れた、田園地帯にそのお店はあります。外目には普通の農家。ですがその中で頂いた料理は、心を揺さぶられるものばかりでした。

 

頼んだのは、和食弁当御膳と、カニクリームコロッケ御膳。どちらも2200円。
和食弁当の、お造りに驚く。
ぶり、鯛、サクラマス。分厚い。口に入れると弾力がある。今の今まで生きていたのではないかと思えるほどに、新鮮。しかも、盛り付けがあざとく無く、小さく深い椀に重ねてあるのだが、椀の底にワカメと茗荷と生姜が敷いてある。それを魚と一緒に食べさせるように、無造作に盛り付けてあるのが、なおいい。

何かの魚の肝の煮つけ。苦みと旨味が優しく調和。
手作りの数種の練りもの。よほど丁寧に練り上げなければ、この滑らかさは出ない。もちろん、出汁の味付けだけの無添加。
ひじきの煮つけ。糸こんにゃくの白和え。優しい、柔らかな味付けで、しかも奥深い旨味。

ご飯。小粒で、粘り気も旨味も満点。毎日自分の店でコメを炊く僕も白飯には一家言あるが、これは美味しい。非常に美味しい。おかずとの比率もいい。おかずが終わるころに、ご飯も終わる。

うまい。

カニクリームコロッケは大好物だが、これほど柔らかでクリーミーで、カニの自然の味わいに満ちたコロッケは初めて食べた。

赤だしの味噌汁も深い。実に深い。
自家製のお新香もいい。お新香だけでも食事ができると思えるほど、食感と野菜の旨味が生きている。

最後にデザートの、小豆のムースにも驚く。
和のデザートの一つの極致ではなかろうか。
それが、何の衒いも無く、さりげなく出てくる。もっと、もっと食べたい。

これで一食2200円とは。

これを作ってくれたご主人はさぞ優れ者だろうと、会計の時に挨拶したいなと思っていたら、先にこちらを待っていてくださいました。

「畑の中の懐石料理屋 かんざ」 オーナーシェフ 石原喜之氏。
柔和な表情ながら、眼光に鋭さが垣間見える。
聞けば、この地に根を下ろして15年。
海鮮素材は北海道から空輸し、野菜は敷地内で自分で育てているとのこと。

この人は、出来る。
帰りに車に乗り、こちらが出発するまで、玄関から見送ってくださいました。こんな美味なるものを出していただいて、恐縮至極。

今日も一つの芸術に出会いました。

味の世界は、果てしなく広く深いですね。

不要なものは消えていく

コロナ問題勃発から数か月。
世界中で悲劇となり、日本でも相当の影響が出続けています。まさに、世が一変しました。

それでも、日本では自粛が解除され、また生活や経済が動き出しています。
数か月の空白を埋めるべく、誰もが必死です。

そうした中で、食の世界では何がどう変わったのか。
変わりつつあるのか。
これから先には、どうなるのか。

それを、この業界の人たちは必死に考えています。私も考え続けています。そして、今のところ行き着いた答えは、わずかながらあります。

全体に言うと、「不要なものは淘汰される」です。

不要なものとは何か?
それは、食が本来持つ役割とは無縁であることです。

食が本来持つ役割とは、何か。

一つには、栄養摂取。人は生きるために、食べなくてはなりません。
しかしそれだけでは、人は単なる動物に過ぎません。種の保存だけの理由で、人は物を食べるのではありません

人が人である所以は、「幸福を追求すること」です。
このことに、食は深くかかわっているのです。
少しでも、生を意義あるものにするために、生きる喜びを感じるために、人は食べるのです。

この、「幸福を追求」することに関係のないと思われる「食」は、これからの時代には淘汰されるのではないか。そう思えてなりません。

たとえば、飽食。
必要以上に食べ漁り、挙句の果てには貴重な食材を無駄にしてしまう。
食材の乱獲もその一つかもしれないです。このような食の形態は、これから許されないこととなるでしょう。

たとえば、不要なブランディングや格付け。
食に順位をつけて、権威付けや拡売を狙う行為は、食本来の価値判断を邪魔し、利用者に不当な差別感を植え付けます。これをビジネスとして行う行為は、厳に慎むべきですし、将来的には、消滅していくと思われます。食する人は、それほど馬鹿ではないのですから。

たとえば、不要で過剰な添加物や化学製品の利用。
全てがいけないとはいいませんが、低温流通や保管技術が進んだ今、それでも利益目的でなお食品添加物を過剰に使用したり、化学肥料や飼料を大量に使用したりする行為は、不要でもあるし、食の聖なる部分を犯す行為だとも言えます。
経済的にそれを使用せざるを得ないと言っても、長い目で見たら、人の健康や幸福を害する行為にもなります。
食材は、必要なものを必要なだけ、可能な限り自然近い形で利用する。それが本来の「美味」を生み、人の心に触れるのです。

やがちゃんキムチが「無添加」を標榜するのは、売るためにそうしているのではありません。

美味を、美味を、と研究するうちに、自然と無添加に行きつくのです。
これは、自信をもって断言できることです。

食品添加物を安易に使用しないことは、自然の食材を濃厚に使うことにつながり、美味の実現と保存性を高めることにつながります。見た目も、自然の色合いや形で、不要な「お化粧」を避けられます。
ただし、無添加美味の道は決して生易しいものでもなく、それ相応の学習と忍耐が必要です。食の職人には、その覚悟が求められます。

外食店舗も、今後はある程度整理されてしまうかも知れません。
ただ出来合いの冷凍ものを揚げたり解凍したりして出すだけでは、食する人の心を動かすことなどできません。チェーン店はもとより、個人店でもそういうお店が目立つのは嘆かわしいことですが、猛烈な自助努力をして、食のレベルを上げることが出来なければ、これからの「選別の時代」に生き残ることは難しくなります。

すべての大きな理由は、

  「食によって人々を幸福にする」

という使命を果たしていないから、ということになります。

食の世界以外でも、同様な動きが見られると思います。

人の選別の能力は、高まっています。

食でも食以外でも、「本質的なもの」だけが残る。

そういう時代になって行くと思います。

(私見)無添加キムチが免疫力アップを期待される理由

新型コロナウィルスの問題が大きくなっていますが、ウィルスを封じ込めない以上、ウィルスに出会っても感染しない抵抗力を持つことが必要になりますね。

いわゆる「免疫力」アップです。

どういう生活を送り、何を食べれば免疫力がアップするのかという話題に必ず登場するのが、発酵食品の免疫アップ力です。

生きた発酵食品に含まれる「良質の生きた乳酸菌」が腸で善玉菌として活躍し、体の免疫力を高めてくれる・・。

生きた乳酸菌食品の代表格がヨーグルトですが、周知のとおり、動物性の乳酸菌は胃酸で殆ど死んでしまい、腸まで届きません。

そこで注目されるのが、植物性乳酸菌が豊富な「漬物」である、というわけです。

この漬物も様々の形がありますが、ぬか漬け、一夜漬け等とは比べ物にならないくらいに乳酸菌量が豊富なのが、「やがちゃんキムチ」なのです。

以下、薬事法の問題もありますので、あくまで私の「私見」として書かせていただきます。

キムチ一般がそうではないのか?・・と思われるでしょうが、違います。豊富な乳酸菌が生まれる背景には、

 ★ 魚介塩辛 (=アミ海老やイワシの塩辛)

の存在が不可欠だからです。
これを使わないキムチは、ただの一夜漬けにアミノ酸だらけのタレを塗ったもので、満足に発酵もいたしません。また、野菜が発酵しても添加物は発酵しないので、とてもおかしな味わいになり、私個人的には、食べられたものではありません。

やがちゃんキムチの旨味の重要要素の一つは、キムチのタレ(ヤンニョムジャン)に含まれる、大量のアミ海老塩辛です。
その量、タレの総量の2割弱にも及びます。これは、他のキムチでは考えられないほどの多量の配合です。

この塩辛に元々含まれている動物性の強い乳酸菌が、白菜の塩漬けの中で、どんどん増殖します。それは、植物性の乳酸菌となります。非常に良質の菌だと個人的には思われます。

これが、胃で死なずに腸まで届くので、腸内環境を浄化してくれて、免疫力アップに役立つと期待される、というわけです。

また、免疫力アップに役立つのは、乳酸菌だけではありません。

 ★ ニンニク(滋養強壮、殺菌免疫アップ作用のあるアリシンが豊富)

 ★ 生姜(体温を高め、殺菌や免疫力を上げるジンゲロールが豊富)

 ★ ニンジン(抵抗力を高めるベータカロティンや、各種ビタミンの宝庫)

 ★ 唐辛子(殺菌力が強く、体温を上げるカプサイシンが豊富)

この4つの素材も、やがちゃんキムチのタレには大量に配合されています。

どの素材も、抵抗力、免疫力を高めてくれて、悪性菌を殺す力を期待される強い素材ばかりです。
体温を上げ、悪い菌を退治し、また病気予防だけでなく、病気からの回復も支援すると期待されます。

やがちゃんキムチのタレには一滴の水も加えてありませんから、すべてはこうした自然の素材なのですが、その配合量は、キムチの常識をはるかに超えた量です。

やがちゃんキムチが完全無添加でこれほどの美味を産むのは、他でもなく、こうした「自然素材の大量配合」に依るものですが、その量は、他社さんの作り方の水準をはるかに凌駕していると断言できます。(企業秘密でその配合量を公開できないのが残念です)

つまり、まとめるとこうなります。

1)やがちゃんキムチは魚介塩辛を大量に使っているので、その作用で自然発酵する結果、良質の植物性乳酸菌に満ちています。これが腸まで届き、腸内環境を整備し、免疫力をアップすると期待されます

2)ニンニク、生姜、ニンジン、唐辛子も豊富に使っているので、体の抵抗力や免疫力を高めると期待されます

以上、繰り返しますが、私の「私見」であり、科学的な根拠に基づくものではありません。
また、上記のような「効果」を保証するものでもありませんので、その点は申し添えさせて頂きます。

最後に一言。

無添加であるということは、美味、健康、幸福・・・こういうことにすべてつながっていると、あらためて実感しますね。

 

 

 

 

 

ミシュランの星など要らない

レストランの格付けの「ミシュランの星」を巡って、星を失ったシェフが命を絶ったり、訴訟を起こしたりと、穏やかでない話題が聞かれます。

また、日本人シェフがパリで経営しているお店がミシュラン三ッ星を獲得したことが大きな話題にもなっていますね。

大変結構なことでしょうが、正直に書けば、あまり関心を持ちません。

当方はキムチ屋ですので、ミシュランの星などは無縁ですし、もし万が一ミシュランがキムチ部門に評価の手を伸ばしたとしても、審査することすらお断りします。

なぜなら、「作りもしない者、経営もしない者に何がわかるか」と思うからです。
顧客の立場で、美味しかった素晴らしかった、いや味が落ちた手抜きがあった等、個人的にいろいろ発信されることは大いに歓迎しますし、参考にもさせて頂きます。
ただ、それが、星がいくつだとか、何点だとか、ランクがAだとかBだとか、やれグランプリだとか金賞受賞とか、頼んでもいない方法で勝手に評価してこれ見よがしに発表されることは、まったく良しとしません。

大きなお世話なのです。

私どもは、キムチや唐揚げやサムゲタンなどの当店の商品をお買い求めくださる方のために全力を尽くしてお作りしているだけで、その関係は、常にその時のお客様との1対1の関係なのです。
その商品についてそのお客様がどう思われるか、どう評価されるかは、その時だけの、お客様と私どもだけの閉じられた関係の中でのことなのです。
それが満点をいただくときもあれば、「今回は失格」とお叱りを頂くことももちろんあります。

その閉じられた関係とは関係のない、勝手なランク付けをされることは、良しとしないのです。

キムチに関しても、いろいろな考え方があり、作り方があります。
どれが正しいか正しくないか、何が一番か二番か、などという詮索は全く意味がありません。味の評価は主観であり、その主観にも、様々の要素が絡みます。作り手と食べ手のそれぞれの背景、事情も関係してきます。

すべては、その時の「一期一会」の関係からくるものなのです。

それを、関係のない他者から、評価を「下される」ことなど、あってはなりません。味も、雰囲気も、サービスも、すべてはその瞬間に生まれ、その瞬間に消費され、その瞬間に直截に主観的に心を動かすものだからです。

星も、勲章も、賞状も要りません。

欲しいのは、お客様からの笑顔。それだけです。

謹賀新年

2020年になりました。
あけましておめでとうござます。
やがちゃんキムチのお客様、このブログの読者様、また「食」に関わるすべての方々に、素晴らしい一年になりますよう、お祈り申し上げます。

 

過去一年、やがちゃんキムチとして成して来たことをつらつら思い出しますと、やはり「もっと美味しく、さらに美味しく、の一念で努力して来たきたことに尽きます。
「夢の塩」の開発はその中でも特筆するべきもので、その後の商品全般の味のレベルアップを決定的にしたものでした。
また、過去から蓄積してきた「無添加美味」の技術を電子書籍という形でまとめ、体系的な味の仕組みをひとまず作り上げたことも、大きかったことでした。

新商品の開発にもそれらが役立ち、秋に発売した「手羽サムゲタン」や、年末に完成した「スンドゥブ」も、「無添加」と「美味」が自然とマッチングした味わいとして、発売間もない今でも多くの方にお褒めの言葉を頂戴しております。

そして年頭に際しまして、今年も「現場主義」「お客様第一主義」で行くことをお誓いします。

どこまでも、現場、現場。何よりも、お客様。

現場やお客様に関係のないことは、行わない。
余計な名誉職や集まりにも関わらない。
有料広告宣伝も一切しない。
商品や商売で嘘は言わない。過剰なことも言わない。
ただ、お客様のためになる「最上の商品作り」のことだけを現場で考え、動いていく。

今年もこれで、一歩もぶれずに進みます。

もちろん、全商品漏れなく、「無添加」「美味」を守り通すことをお誓いします。

本年も、何卒宜しくお願い申し上げます。

2019年 年末配送受付状況です

今年も大変お世話になりました。

年末の配送予約が立込んでおります。

12月24日8時現在の受付状況です。
(ご予約は24日中に受付終了予定です)

どうぞお早目のご予約をお願いします!

   やがちゃんキムチ  2019年年末 配送ご注文 状況 

本州・四国お届け日
(北海道九州沖縄は
1日遅れです)

(発送日)状況

12月25日

24日 ×締め切りました
26日25日 ▲あまり余裕無し
27日26日×締め切りました
28日27日 ×締め切りました
29日28日 ×締め切りました
30日29日▲あまり余裕無し
31日30日 ▲あまり余裕無し

味作りとラグビーと、子供の経済教育と

ラグビーのワールドカップ、日本チームの戦いが終わりましたね。
俄かファンとなった私も、手に汗を握って応援しました。感動を感じました。
今回のイベントは、日本で行われて本当によかったですね。
いまだに来年の真夏の東京での五輪開催について懐疑的な私ですが、ラグビーワールドカップについては、拍手したいです。

五輪の真夏開催は、大スポンサーであるアメリカのテレビ局の都合によるそうですね。秋になると、アメリカのプロスポーツのイベントが重なるため、4年に一度の五輪は、夏にしか出来ないのだそうです。

一方、聞いた話に寄りますと、日本のラグビーチームのメンバーの年収合計よりも、たとえば、日本のプロ野球のある一選手のそれのほうが上だとか。アマチュアリズムが堂々と働いているラグビーは、「お金」がまだ絡み付いていない部分があるのですね。それを知って、さらに好感を持ちました。

ところで話は変わりますが、最近、子供に「投資」や「経営」の教育をする、という動きが増えているようですね。会社経営や投資のシミュレーションをさせて、優劣もつけるようです。

小さいうちからそのような「技術」を身につけることはいいことだ、という考えには、私は大いに違和感を持ちます。

子供の頃に妙に「金銭感覚」や「経済観念」を身につけたら、ある類のものを敬う気持ちを失うと思うからです。
ある類のものとは・・・一言で言うと、「その価値を数字や金額で表せないもの」です。

言うまでもありませんが、世の中、すべてがお金の経済で回っているわけではありません。
夢、愛、善意、恋、憎しみ、悔悟、喜び、・・・そういった言葉で表せる「心」で動くことも多いのです。そして、子供の頃こそ、この純粋な心の世界を助長するべきなのです。アマチュアリズムもそのひとつですね。

お金のことや経済のことは、大人になれば否応なしに直面することです。
子供の頃にその教育をすれば、必ず「優劣」を競い合う結果になるでしょう。シミュレーションゲームでより利益を上げた子が「出来る子」として尊敬を集めるでしょう。その子は、仕事で成功することこそ人間の価値だと誤解してしまうかもしれません。

それでよいのでしょうか?

それより、稼げない子、打ち解けない子、負けてばかりいる子、心を閉ざしている子、成績が悪い子・・・そういう子に「どうしたの?」「一緒に遊ぼうよ」「大丈夫だよ」と声をかけ、寄り添える心。
それこそが、子供時代いっぱい時間をかけて、育むべきものだと思うのです。

それは、大人になってもとても重要な心の要素となります。

大人の世界は、少しの経済的成功者と多くの非成功者で成り立っています。
それは資本主義の宿命です。

その中で、弱きものに寄り添う心が持てるのか持てないのか。
それは人生を豊かにすることにつながります。

「誰一人置いていかない教育」
それこそが、若い人たちに成されるべきものだと思います。

そして、経済的に成功することと豊かに生きていくことは全く別のことです。

これはすでに、「共生の時代」の重要性を感じ始めた世界共通の認識と言っていいでしょう。

それに逆行する、子供への経済・投資教育。意味がないと申し上げたいと思います。

そしてそれに関連して強調したいのは、私のいる「味」の世界も、「数字」「利益」とは関係のないものだということです。

そう。ラグビーと一緒です。

味やラグビーの精神の本質は、むしろ、そういうところとは「逆」の側にあります。
お金や名誉の影がちらついては、いい味は作れません。
いくら売れたとか、マスコミで紹介されたとか、ナントカ賞をもらったとか、そんなことは味の本質とは何の関係もありません。

選手の年収が何億円だとか騒がれても、アマチュア選手のタックルに倒れたら、直ちにその看板は崩れます。

一人の喫食者に、感動を与えられるか与えられないか。
一人の観る者に勇気を与えられるか与えられないか。
そこで全てが決まります。
つまり、味作りもラグビープレーも、一つの芸術と言って過言ではありません。

笑われるかもしれないですが、食に携わる私は、日々そう思いながら仕事をしております。

日本中を感動させたラグビーチームのあの頑張りにはとても適いませんが、さらに精進していきたいと思います。

馬鹿舌を捨てて、本当の美食家に

最近再び「激辛ブーム」とやらが起きて、5倍だの10倍だのの「辛さ」を売りにする食べ物が氾濫しています。唐辛子業者さんは大忙しだそうです。

ちなみに私、キムチ屋ですが、辛いものは苦手です。
でも、最近気がついたのですが、辛いものそのものが苦手なのではなく、辛いものを美味しく感じさせるために投入される添加物(化学調味料等)が苦手なのです。

キムチもそうですが、辛さは素材の「旨み」を消しがちです。
そこで、化学調味料を大量につかうことで、人工的な旨みを意図的に加えるのです。

辛さで舌がしびれるところに、大量の化学調味料。

こういうものを日常的に食べていたら、その人の舌の味覚は麻痺してしまいます。
本当の「美味」などを理解できなくなるのですね。

辛くなくても、それは同じです。

化学調味料の作用は、「本来美味しくないものを無理やり美味しく感じさせること」ですから、やはりそれだけでも舌は麻痺してしまいます。

そして、そういう方が持つ舌を、私は「馬鹿舌」と呼ばせて頂いています。言葉は悪いですが、ぜひとも直していただきたい意味を込めて、敢えて辛らつにそう言わせて頂きます。

馬鹿舌は、一種の味覚障害です。

強い味を好むようになり、糖尿や肥満にもなりがちです。
情緒不安定にもなるのではと思われます。
馬鹿舌はエスカレートして、さらなる濃い味、さらなる人工的な味付けを好むようになります。

馬鹿舌を直すには、方法は一つ。

無添加のものを食べ続けるのです。
それも、そう長い時間は要しません。
なぜなら、人の舌の細胞は、わずか半月ほどで入れ替わるのだからだそうです。

無添加で自然の味付けに慣れれば、入れ替わった細胞もそれに慣れます。

たった半月です。

是非明日から、無添加の世界へ。

そして、本当の美味しさを知ってください。
そのときには、舌だけでではなく、「脳」も「心」も、入れ替わっていてほしいです。
それが、本物の「美食家」につながる道だからです。

まずは、濃い味や刺激的な味からの逃避です。
そこからスタートしてくださいね。

無駄な格好付けは必要ない

前から気になっていることですが、テレビ等で見かける食の職人さんの中には、かなりのヒゲを生やしたり、男性でも長髪の方がいらっしゃいます。

また、長髪か短髪かにかかわらず、帽子を被らないで調理をされている様子も散見されます。

これについては、さまざまの意見もあるようですが、私の見解。

料理人は、ヒゲを毎日剃りましょう。
どうしても伸ばしたければ、調理中はヒゲをラップで抑える等の対処が必要ですが、実際は不可能でしょう。

髪の毛にいたっては、全員坊主にせよともいえませんから、長髪でも短髪でも構いませんが、必ず髪の毛が隠れる帽子を被りましょう。

理由は明確です。

ヒゲも髪の毛も、かなりの頻度で「抜けて落ちる」からです。単純にそれだけです。
それが料理の上に落ちる可能性は、否定できません。

料理人は、おしゃれをしてもしなくても自由ですが、それは料理の出来映えに関係しません。
ただ、料理の主役は料理そのものであって、料理人は過剰な自己主張をすることは控えたほうがいいというのも、私の考えです。

それはともかく・・・

無帽、ヒゲのたくわえ・・・・やめましょうね。

無駄な格好付けは、必要ないです。

 

 

60の素材には、60のタレを自分で作る

すべてを自分で作る

やがちゃんキムチでは、ほぼすべての商品を自作しています。
店内で販売しているもので自作でないものは、韓国のりや冷麺といった乾物商品くらいです。

それだけではありません。

やがちゃんキムチは、すべての商品に使う「調味料」(化学調味料の意味ではなく、自然調味料です)も、「自作」しています。

塩まで作る

タレの基本は以下の10種類です

(タレ) →  (用途)

ヤンニョムジャン→ヤンニョム系の基本だれ
スーパーヤンニョムジャン→魚介系キムチ
マイルドヤンニョムジャン→野菜系キムチ
オリーブ七味→からあげ、やきそば、甘辛チキン
野菜用醤油ベースキムチだれ→香辛野菜系キムチ
コチジャン→全般
丸大豆醤油だれ→全般
もみだれ→焼肉系
和風だし→全般
塩(夢の塩)→野菜塩漬け、唐揚げ味付け、ナムル等

この10種類のタレを、各商品の素材に合わせて、それぞれブレンドしています。

最近になって「塩」の自作ブレンドも始めました。
これによって、化学調味料等の食品添加物だけでなく、酵母エキス等の疑似化学調味料も使わない路線がより強固に確定しました。

もちろん、醤油やみりん等の市販素材はタレの素材として使います。
しかし、商品に直接使う「タレ」は、すべて、自社で製造しています。

つまり、やがちゃんキムチには約60種の商品がありますが、60通りのタレを作っているという意味です。

同じタレは、他の商品には使いません。60種の商品に対して、60のタレを作っています。

効率が悪くても、そこは譲らない

これは、非常に非効率的なことです。
一つのタレで総てが済まないわけではないです。
そのほうが余程効率的で、利益も上がります。

しかしそれでは、最高の味が出るわけ無いです。
素材にはそれぞれに最適のタレの味がある。

だから、すべて、違う味のタレを作り、使うのです。

タレ作りは業務の要です。

タレで商品の味が決まります。いくらいい素材が手に入っても、タレがだめだと、いい商品にはならない。

素材もタレも、最高の品質とマッチングを

いいステーキ肉が入っても、いいソース(タレ)があると無いとでは大違いですね。
そのような例は、よく散見されます。
肉屋さんや魚屋さんが、一流の素材を扱いながら、いい加減なタレを一緒に売っている例も多いです。

それではだめなのです。

それは私どもの誇りです

味付けのタレまで、すべて自分で作る。何から何まで、塩まで作る。

それは、キムチ屋としての私どもの矜持であり、また、哲学でもあります。

もちろん、無添加であること、限りなく美味であることは、いうまでも無い前提条件です。

すべての商品に、ベストの味を追求する。

すべてを、自分で作る。

やがちゃんキムチは、そういう店です。

 

キムチは本来腐らない

キムチは腐るのか?

 

お店で頻繁にお客様から受ける質問は・・・

「これはいつまで保存できますか?」

です。賞味期限ですね。

当店の商品には全品賞味期限が表示されています。

ただ、当店のキムチでは、この期限の示す意味合いが多少違います。
普通賞味期限とは、
「この日までに食べてください」という意味合いですが、やがちゃんキムチでは、ニュアンスが違うのです。

野菜系キムチの場合は、

●賞味期限までに召し上がって頂ければ、通常の味わいです。期限寸前になると発酵が進み、酸味が出る場合もありますが、これは腐敗とは違います。期限が過ぎると、その発酵熟成が進みます。酸味も増しますが、旨みも増します。それが大変美味しいと感じられる方も多いです。

ただし、気候条件や保存状態によって、この基本が崩れることもあります。お気になさる方も多いので、賞味期限までにお召し上がりください。

ということです。

魚介系キムチの場合は、

●賞味期限までは通常の味わいです。期限寸前になると魚介にタレが沁みて、魚介本来の味が失われる場合もあります。期限が過ぎても腐敗にはなかなか至りませんが、気候条件や保存状態によって、この基本が崩れることもあります。ですから、賞味期限までにお召し上がりください。

私自身は、「白菜キムチ 頂」が、かなりの酸味が出たころに食べるのが大好きです。
酸味の出たキムチを白いご飯に乗せて、たっぷりと食べる・・。
これはたまりません。

ですが、やはり、賞味期限内に召し上がるようにお願いします!・・と申し上げておきます。

個々のニュアンスの違いを理解されたうえで、ご自信の責任のものとに賞味期限を過ぎて召し上がる方もいらっしゃいます。

それでもやはり、公的には、賞味期間内に召し上がることを推奨いたします。

結果は、このように普通の賞味期限と同じ意味なのですが、ニュアンスの違いがお分かりいただけたでしょうか。

「やがちゃんキムチは長期間腐りませんが、賞味期限までに召し上がってください!」

 

 

 

休日散策と名店のアナゴ丼

今にも雨が降りそうだった本日の休日は、自宅近くの松戸駅周辺を散策。駅前の繁華街を歩いたり、旧水戸街道沿いを進んだり、徳川昭武の別邸の戸定邸を訪ねたり。

帰りはこれも風情のある「馬橋」駅から自宅のある「小金」まで、さらに歩きました。
半日歩き続けて、気持ちのいい疲労感に浸りました。

 

途中、旧道沿いの著名な和食店で、有名な「アナゴ丼」を頂きました。

 

とてもシンプルな味つけで美味でしたが、もし自分がアナゴ丼を作るなら、酒でふっくらさせた後にもっとタレをかけて、甘辛くしたい。もちろん、出汁が効いて、無添加で多少の辛味があるような味付けで・・・などと思いました。

でも、このお店は恐らく、開業以来味を変えていないんでしょう。
それはそれで、存在感があります。徒に新しければいいというものでもないですし。
常に革新を意識しながらの守旧主義ならそれでいいのです。

そういえば以前、「アナゴのキムチ煮」というのを作り、一時ネットで売ったことがあります。
作るのに難度が高くて止めてしまったのですが、あれはあれで、自分にはいい経験でしたし、すごく美味でした。
ところがその時、あるコンサルタントさんに、「アナゴのキムチなんかやってましたよね」と揶揄するように言われたことがありました。
「なんか」とは何だ。何がわかる。それも、食べてもいないのに・・・と思いましたが、口には出しませんでした。

この方は、やがちゃんキムチを「キムチ屋」としてしか理解していなかったのだと思います。

やがちゃんキムチを最も理解しているのは、コンサルさんたちではなく、実際にお金を払って買ってくださるお客様です。それは間違いがありません。

お客様は、うちをキムチ屋としてではなく、「やがちゃんとかいう人が一生懸命新たなグルメを次々と開発している美味しいお店。それも、全部無添加で。そういえば、キムチが多いかな」というように認識してくださっています。だから、新商品をご案内すると、すぐに買ってくだいますし、感想も度々下さいます。

南柏本店の店頭にしても、キムチはもちろん、唐揚げはある、弁当はある、コロッケはある、たまに焼きそばあるし、タレはある、キムチだって50種はある、最近は塩まで作って売っている。もちろんオール無添加。そして、ご好評を頂いています。

単品のキムチ屋では、全然無いのです。

アナゴのキムチがあっても、いいじゃないですか。

などということを思い出しながら食べたアナゴ丼でした。
次はここで天丼を食べようと思います。
どんな天ぷらと、タレなんだろう? 食べるまでに色々思いを馳せるのもまた、グルメの楽しみです。

料理に順位などつけられない

料理の順位付け自体がおかしい

一例ですが、ミシュランガイドというものがありますね。

といっても、興味がないので、私は実際にその本とやらを見たことがありませんが、高級レストランや和食店などに「星」をつけて評価するものらしいですね。最高ランクは、三ツ星だそうです。

それでどうした?・・・・と思います。

食べるものに、順位がつけられるのでしょうか?

しかも、基準がはっきりしない。
もちろん、「味」とか「雰囲気」とか「サービス」とか、さまざまの基準があるのでしょうが、それはそれとして、それで何点とろうが、それでどうした?・・・・と思います。

味の評価は「主観」です。

サービスへの評価も「主観」です。

雰囲気をどう感じるかも、どこまでも「主観」です。それ以外のもので判断のしようがありません。

主観でしか判断できないものに、数字で表現する客観的な「順位」をつけるという行為。それ自体が間違っていると思うのは、私だけでしょうか?

数字で評価を表現することは、あまりにも安易です。

たとえば、一皿の料理には、料理人やそのお店のさまざまの歴史や人生が影響しています。

食材の選択にも、調理の方法にも、盛り合わせの仕方にも、その人の、その店のすべてが反映されます。

それを単純にランキングや星の数で他の料理と「比較」など出来るわけがないのです。
それは、星をつけられた店にも、つけられなかった店にも、同時に失礼な行為ですし、料理という人間の崇高な行為に対する冒涜にもつながると思います。

料理は、ただ料理として味わう

料理は、ただそれとして味わう。
そして、美味しいか、そうでないか、感動するか、心を揺さぶられるか、そうでないか、それを一人ひとりがそれぞれに感じる。それだけでいいのです。

作る人と、食べる人の静かな会話。
それが、料理を味わうという行為です。

真剣に食べる人には、時には他の人に見えないうそやごまかしが見えることがある。
それも含めて、料理を作る、食べるという行為は、人間だけが味わえる一つの芸術作成行為、芸術鑑賞行為であるともいえます。

それを、やれランキングだ、やれ星の数だ、やれグランプリだなどと、下心の含まれた商業行為で汚してはなりません。

そして、作る側も、徒にそういうコマーシャルベースに乗ってはいけないです。

やがちゃんキムチがそのような星の対象になることは間違ってもないでしょう。
が、それはそれとして、その手のイベント等からは距離を置き、これからもずっと「わが道」を行きます。

 

 

真贋の森 (食の本物と贋物)

松本清張の名作「真贋の森」。久々に読みました。

優れた作品というのは、繰り返し読んでも、読むたびに新たな感動や気付きがあるものですね。

実力のある初老の美術評論家が、田舎に埋もれていた模写の名人を徹底指導し、著名な日本画家の贋作を次々と画かせます。

それを自分を排斥した学会中枢の評論家達に鑑定させ、「真作発見!」と発表させた後、「あれは自分が指導した田舎作家が画いた一連の贋作だ」と公表し、彼等に大恥をかかせるという筋立てです。

計画は周到に進められましたが、いざ公表寸前という段になって、頓挫します。

計画の一端を、なんと田舎作家が知人に漏らしてしまったのです。
田舎作家にしてみれば、「これだけそっくりに画ける自分は天才である」という自負を持ち始め、それを誇りたいという衝動がそうさせたのでした。

こうして、報復の計画は果たされずに終わります。

こういうストーリーなのですが、今回の読後私は、「真贋」の問題を「食品」に当てはめたらどういうことになるのかを考えました。

食品は芸術ではありません。食べればなくなりますから、「作品」として残すことも出来ません。

ただ、食する人の「感動」を呼ぶこともあるのも事実です。
それが芸術的感動に匹敵する瞬間があることも、時にあります。
ただ、それであるからこそ、「真贋」の問題が起きることがあるのかもしれないです。

今の世の中、ネットで食べた感想を気軽に書き込めますし、それを評価制にしたり、ランキングとして表現することも流行っていますね。やがちゃんキムチのメニューも、多くの方がご評価を下さっています。

そんな中、「食通」と自称する人もいます。その方々の評価は、影響力を持ちますね。

でも、食品に「真贋」があるのでしょうか?

無添加だから正しいとか、添加物で偽装しているから間違っているとか、ここではそういうことは書きません。

「正しい」「本物」と自称する人には、どこか胡散臭さも漂います。

そういうことではなく、毎日食品をこの手で作っている立場として、今言えることがあるとすれば・・・

1)食べるものに対する評価は千差万別。ポイントやランキングがあるのは結構だが、一番の基準は、個人の主観である

ということです。

カレーライスのランキングがあるとしても、たとえば私自身の「ベストカレーライス」は、子供のころ母親が作ってくれたカレーです。
朝学校に出かけるときに、「今日はカレーだよ」と母に言われると一日中ワクワクし、家に帰るのが楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。

同様の方は多いのではないでしょうか?

食べ物が美味しい、美味しくない、と評価する基準には、その個人の過去の思い出や経験も加わります。そこがまた、食べ物の奥深いところなのだと思います。

こう考えてくると、芸術でも同じことかも知れません。

私にとって「ベスト芸術」を挙げろ言われたら、ひとつに、ピカソの「青の女」という絵です。

これは、人生の進路に悩んでいた20代前半のときに上野の美術館のピカソ展で見たものですが、青が基調の女性像の唇の赤さが、当時結婚を考えていた女性を思い出させ、衝撃を受けたものです。(結局結婚は破談になりました)

もうひとつは、奈良の中尊寺の「弥勒菩薩」。

 

会社経営が思わしくない30代の時に奈良を訪れ、この像の前に座り、一時間も見入っていました。
これからどういう生活が待ち受けようとも、仏様は許してくれるのかな・・・ということを考えたのを覚えています。

そうです。

芸術作品に対する評価も、個人の生活の状況で変わるのです。

私たちは、自分というひとつの生きた存在として芸術に向き合うのですから、当然ですね。

芸術ですら、そうです。

食べ物なら、尚更ですよね。

食の「真贋の森」も、芸術同様に奥深いです。

ただ、どんな食でも、愛情が伴われて作られたものは、贋物ではありません。
本物です。食べて美味しくなくとも、本物です。

そこが、芸術と食品の違うところなのかも知れませんね。
食は、「作る動機」が重要なのです。

添加物を入れまくったり、誇大広告をしたりして売りまくり、自分の利益だけあればいいという姿勢で作るものは、どんなに美味しく感じられようとも、私には「本物」には思えません。

また、偉ぶって「俺のものこそ本物だ。おまえの作るものは贋物だ!」と言ってのける食の評論家の評価も、「贋物」の場合があるということですね。
評価は、絶対のものではありません。それを絶対のように表現してしまうひとは、真贋の森で迷子になり、ただ叫んでいるだけなのだと思います。

今日の結論。

人を愛するがゆえに作る食べ物に、贋物はない。

ただ己の利益のために作るものには、贋物がある場合がある。

 

フェイスブック記事より

フェイスブックではかなり頻繁に記事を投稿しておりますが、プライベートな内容も多いので、公開はしておりません。

最近の投稿のなかから、ひとつご紹介いたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先ほどご来店の女性のお客さん。キム唐と塩唐のお弁当とキム唐単品をご注文。
「ウチの子がね、今日誕生日だから、ケーキでも買ってあげようか、と聞いたら、やがちゃんの唐揚げがいいって。おたく、すごいわね。ケーキに勝ってるわよ」と。

嬉しくなって、「お祝いに!」と唐揚げをメガ盛りにして差し上げたら、お母さん、「うれしいわあ!」と涙ぐんでくださいました。
僕も、ちょっともらい涙。

うちの唐揚げは無添加美味。安全性と美味しさはどこにも負けない自信があるけど、それは別としても、こういうお客さんとのやり取り、コンビニや最近増えてきた大手の唐揚げチェーンじゃ絶対に出来ない。

お客さんは、お金儲けの対象じゃないです。自分の生き甲斐の対象。だから、添加物なんかバンバン入れたり、油を真っ黒になるまで代えないような唐揚げなんか売れません。自分の生き甲斐を汚してどうするの。

今頃あの親子さん、メガ盛りの唐揚げを頬ばってくださってるでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上です。

ところで、ブログの書き方については、10数年も前に、ある専門家のセミナーで、「マナー」だとか「理想的な記事の組み立て」とかを習ったことがあり、どうにもその「束縛」から抜け出られないでいました。

あまり真面目ではない自分ですが、やはり、「三つ子の魂百まで」で、捉われてしまうんですね。

・・・と、人のせいにするのはいけませんね。
自分の表現力が足らないせいなのです。

それはともかく、フェイスブックでは特にそういうことがなく、結構自由に書けています。

ただ、上にも書きましたが、かなり狭い範囲での個人的な事項についてのことが多いので、公開もはばかられるわけです。公開したからといって、特に何も起きる訳でもないのですが。

今後は、このブログにも、あまり気にせずに軽い感じでいろいろと書いていこうと思います。

どうぞよろしくお願いします!

 

さしすせそを汚すな

さしすせそ、ご存知ですよね? 料理用語です。

さ・・・砂糖
し・・・塩
す・・・酢
せ・・・醤油(昔の仮名使いの「せうゆ」から)
そ・・・味噌(ソースではありません)

この5つの基本調味料は、さしすせそ の順番で使うことが基本です。

まず、甘み。そして塩。これを間違えると、塩味が先に立ってしまい、うまくいきません。漬物でもそうです。砂糖を使う場合は、塩より前に振ります。

酢も後から入れて、味を確認しながら量を調整します。
醤油や味噌は最後ですね。早く入れると、材料が硬くなったりします。

それはそうと、この「さしすせそ」、汚されてるんです。

汚されるというのに語弊があれば、「混ぜ込まれている」と書くべきでしょうか。

混ぜ込まれているのは、「化学調味料」「たんぱく加水分解物」「酵母エキス」などの「うまみアイテム」ですね。化学調味料はれっきとした食品添加物です。ほかの二つは添加物には分類されては居ませんが、強い旨みを呈する調味料ですね。

私、思うんです。

調味料といのは、料理の味付けをするものですよね。

たとえば、「きゅうりの酢の物」があったとします。

新鮮なきゅうりには、酢の味が良く合います。これに醤油が少し入ってもいいですよね。きゅうりの味が引き立ちますね。

この酢や醤油に、化学調味料等の混ぜものなんか不要ですよね。

もっといい例で、握り寿司。
お寿司のシャリに酢、砂糖、塩が使われているのは、寿司という食べ物を美味しくするためです。シャリに乗せられた魚の味とあいまって、また食べる直前にちょっとつける醤油の味、ワサビの味と一緒になって、ひとつの「寿司の世界」が展開されるわけですね。

それで、十分に美味しいのです。

寿司用の醤油や酢に化学調味料が入っていたらどうですか?
より美味しくなりますか?
なると感じられていたら、ご自分の味覚を疑ってください。

なぜなら・・・・

「さしすせそ」に代表される基本調味料は、それだけで強い旨みを含んでいます。
そして、食材本来の味を邪魔せずに、食材を「より美味しくする」力を持っています。

ここに、化学調味料や酵母エキス等の混ぜ物は要らないのです。

料理は。そういったものの「ニセの旨み」を感じるためのものではないからです。

料理は、食材の美味しさを最大限に表現するものです。

ですから基本調味料は、みずから前面に出ることなく、食材の自然の味を引き立てる役目を持っているのです。
調味料は料理の脇役でなくてはなりません。

化学調味料や酵母エキスは、それだけで料理の味わいを被ってしまうのです。せっかくの素材の味が、隠れてしまいます。

「アジ○○」という名の、化学調味料入りの塩。
新味醤油というような名の、アミノ酸調味料(化学調味料)入りの醤油。
「~~ぽん」とかいう名をつけられたアミノ酸調味料入りの酢。
「だし入り」と銘打って、じつは化学調味料入りの味噌。
さらには、「出汁パック」と書かれて、料理にこだわる人に人気の商品に入れられた、酵母エキス。

等々。

みな、素材を汚すものばかりです。

立派な会社の作る立派な商品ばかりですが、やがちゃんキムチでは絶対に使いません。

不要ですから。

 

出汁の力

だしは「旨み」の真髄

日本には独特の「だし」(出汁)の文化があります。

それぞれ各地の山海の産物から、「旨み」を抽出するものが出汁ですね。

代表的なものは、かつおぶし、昆布、魚の煮干し、菌茸類、アサリやホタテなどの貝類、野菜類などですね。
それぞれが独特の旨みを持ち、そこから取り出した成分が料理の「下味」を支える役目を担います。
これこそが、「旨み」の真髄ですね。

味の7要素と、その構造

私見ですが、「味」には、「甘い」「酸っぱい」「辛い」「苦い」の要素とともに、「旨い」という感覚と、「しょっぱい」という感覚があります。「旨味」は、「塩味」とともに、味全体の構造を支えます。この二つがない味わいは、土台のない味となり、いわば「腑抜け」の味となります。(繰り返しますが、私見です)

ですが、この「旨み」を出す最大の武器の「出汁」は、なかなか利用されません。

それは、材料が高い、手間がかかる、保存が利かない、という「三重苦」を背負っているからです。

そこで登場するのが、「化学調味料」なのですね。

化学調味料を使う理由は簡単

安い、入れるだけの手軽さ、そして半永久的に保存できるという「有難さ」があるからです。

これは私が実験的に試したことですが、グルタミン酸を多く含む昆布を長時間煮出して、煮詰めて煮詰めて180ccの昆布出汁を作り、化学調味料の「味の素」(科学的にサトウキビのエキスからグルタミン酸を抽出した商品名です)10gを水180ccに溶かしたものと味比べをした場合・・・いったい昆布を何グラム必要としたか・・・

「味比べ」なので感覚値ですが、なんと、1キロ以上の昆布が必要でした。

かたや市販の味の素、10g、約5~10円程度。かたや昆布1キロ、数千円。
重さにして100倍、値段にして千倍!

しかも、昆布を1キロ煮詰めるその手間たるや、半端なものではありません。
加工食品は、塩分とともに、旨みを出す「アミノ酸化学調味料」を非常に多く使いますがその背景には、こうしたことがあるのです。「美味しい」「味がある」という感覚を出すために、化学調味料を入れる。非常に安易で、非常に効果的で、経済的。

市販のキムチに平均的に入れられる化学調味料の配合費は、2~数パーセント以上と思われます。これを昆布出汁で賄おうとすれば、計算上、キムチよりはるかに多量の昆布が必要となってしまいます。

やがちゃんキムチは無添加です。化学調味料、もちろんゼロです。しかも、無添加でありながら、豊かな旨みを目指しています。何故か?

問題は、「志」

その理由は、ひとことで書けば、「志」なのです。

なんとしても、美味しいものを作りたい。無添加で作りたい。そこが私の出発点です。それを実現させるのが当店の進み方であり、添加物を入れることは、当店の価値を無くすことにつながります。

その志で、日本の「出汁」の利用を考えたのです。

日本に生まれ日本で育った日本人の調理人が、和の出汁を利用しない手はありません。

さまざまの素材で出汁を取り、キムチに応用してみました。

そして現在の『やがちゃん出汁』に行き着きました。

鶏肉豚肉スープの出汁と、昆布、イワシ、シイタケから取る和風出汁です。

この二つの出汁のミックスが、キムチのタレ(ヤンニョムジャン)の味の下支えをしてくれます。
やがちゃんのヤンニョムジャンは、無添加で優しい味なのに、しっかりとしていて、薄めても味が割れない。キムチの残り汁だけでも十分ご飯が食べられる・・・・というのは、この出汁の力の成せる技なのです。

仮にこの出汁と同じ成分の化学調味料を作り加えたとしても、同じ味はまったく出ません。なぜなら、生きた自然の食材に、高温抽出した合成素材は馴染まないからです。
キムチ独特の、発酵による味の変化も楽しめません。
上から強制的に味をかぶせる化学調味料添加は、本来の美味しさとは全く別の味にしてしまいます。

それを使うのは、職人の恥。こう言い切っていいと思っています。

出汁の詳細については、別の項でまた触れます。

 

 

 

 

 

 

キムチなんて嫌い、という方にこそ召し上がって頂きたい

あけましておめでとうございます。

本年も「やがちゃんキムチ」をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、昨年11月にオープンいたしました、「やがちゃんキムチ南柏本店」は、おかげさまで盛況です。

JR常磐線(千代田線直通)南柏駅東口下車1分です。
地図はこちらです。

どうぞお越しください!

 

本年、やがちゃんキムチが一番お伝えしていきたいことです。

「キムチが嫌いという方こそ、召し上がって頂きたい!」

理由は以下のとおりです。

 

1)キムチ嫌いの理由は、市販のキムチの添加物の過剰使用が原因であることが多い

これは常々思っていることです。

キムチは、その色、味、素材から、無添加で「美味しく」することが非常に困難な食品です。

ほとんどすべてのメーカさんは、それを、化学調味料等の食品添加物を多量に使用することで補っています。少ないところでも、総量の2~数パーセントの添加物を使うことが常識になっています。

合成添加物は、少し食べると「美味しく」感じさせるものですが、体が自然と「拒否反応」することも多いのです。

キムチが嫌いという原因の多くは、ここにあると思われます。

 

2)キムチといえば「白菜キムチだけ」という状態の業界に、創意工夫の努力が感じられない。

やがちゃんキムチでも、一番売れるのは「白菜キムチ」には違いないですが、それでも全体の3割程度です。残りの7割は、野菜系、海鮮系、肉系などの、「創作」メニュー群です。

やがちゃんキムチをお買い上げになるお客様の平均お買い上げ品目数は、6~7品に上ります。多い方は、20品目以上お買い上げになります。
皆さん、味のバラエティをお楽しみいただいているのです。

やがちゃんキムチは、「キムチ屋」ではなく、「やがちゃんの創作グルメワールド」なのです。

 

キムチ、唐揚げ(キム唐・塩唐)、サムゲタン・タトリタン等の鳥丸煮、カニのケジャン、ホタテ・牡蠣・タコ・エビ等の海鮮キムチ、野菜系キムチ10数種、もずく、アボカド等の新作キムチ、お弁当、焼きそば 等々・・・・

キムチはだめだけど、やがちゃんキムチなら大好きです、というお客様が、本当に多いのです。

すべてが、「無添加」です。

どうぞ、今まで味わったことの無い味の世界にお越しください。

ご注文が多くお待たせすることもありますが、全力でお作りし、お届けします。

新店舗が開店しました

やがちゃんキムチの新店舗が開店しました

新たな店舗の詳細は以下のとおりです。

開店日 11月20日(火)

やがちゃんキムチ南柏駅前本店

営業品目

キムチ  唐揚げ  お弁当  サムゲタン等 店頭売りと通販(従来と同じです)

住所 千葉県柏市豊四季508-16 1F
JR常磐線 南柏駅 東口下車徒歩1分

 営業 10時30分~20時
 定休日 日曜日

駐車場 あり(店に隣接する No.1 の1台分です)

 電話 0471-71-5701 (以前と同じ)
FAX 0433-32-8861
メール yagachan@gmail.com

今までの「光ヶ丘団地店」では、12年間お世話になりました。
今般、南柏駅前に、拡大移転をすることになりました。

何とぞご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。