涙はどこへ行った

あなたは、最近いつ泣きましたか? 人前でです。

中学一年生の夏休みに、私は陸上部の練習で、校庭を走っていました。暑い日でした。
その時、校内アナウンスがあり、「陸上部の矢ケ崎君、すぐ職員室に来るように」と言われたのです。
慌てて職員室に行くと、電話の受話器を渡され、叔母の声が聞こえました。「お爺ちゃんがね、危ないの。すぐに病院に来なさい」

祖父は、その日の朝は元気だったのです。しかし、私が飛んで行った病院のベッドで、ちょうど息を引き取るところでした。
女医さんが祖父にまたがり人工呼吸を試みていましたが、それも終わり、「ご臨終です」と言いました。
心筋梗塞でした。

その時です。
ベッド脇にいた私の父が私たち家族に背を向けて窓に向かい、顔を上向きにして、涙をハンカチで拭いたのです。
そしてすぐに向き直り、先生に「お世話様でした」と頭を下げました。
その時の光景を、50年もたった今でも、私は思い出すことが出来ます。
それが私が体験した最初の肉親の死で、初めて見た父の涙でした。

次の体験は、ちょうど10年後。その父の死でした。
年末の寒い朝、父もまた、前の日まで何も無かったのに、心筋梗塞で急死しました。
同居していた姉の夫が人口呼吸を必死にしてくれましたが、息は戻りませんでした。
私は茫然と父の枕元に座り込み、動けませんでした。背後では、救急車を呼び、あちこちに電話したりと、家族があたふたと動く音が聞こえていましたが、やがて急に静かになりました。
姉の夫が襖を閉めて、私と父を二人きりにしてくれたのです。
無言で父の顔を見ていた私は、急に涙がこみ上げてき来て、堰を切ったように嗚咽しました。
ほんの、数十秒だったと思いますが、激しく泣きました。
それが二度目の肉親の死でした。

三度目は、それから35年後。母の死です。
店の商売があるから普段めったに地元を離れない私が、その秋の日に限って大阪城のすぐ傍のホテルに居て、夜開催されたある会合に参加していました。そこに妻から電話があり、入院中の母の死を知らされました。妻は、「お母さんは穏やかな顔だったよ」と言ってくれました。
会合の場を抜け出し、私は大阪城のお堀の前まで行き、誰にも分らないように泣きました。老いても私が心配を掛け通しで、念願の海外旅行にも連れて行けずに逝かせてしまった申し訳無さや、それでも、常に私を守ってくれた母の大きさや優しさを思い、泣いたのです。泣けて泣けて仕方が無かったです。

私の世代は、「男は親の死に目以外には、人に涙を見せてはならない」と言われた世代かもしれません。「抑制の美学」ですね。

このように私も、肉親の死で泣いてきました。それは、心から悲しかったからです。
祖父の死で涙をぬぐった父は、大正生まれの陸軍の兵隊上がりで、「抑制の美学」を教えられてきましたが、さすがに自分の父の死では、泣いたのです。あの涙は、13歳の私から見ても、純粋に美しいと思われた涙でした。

感情を表に出すのは、「抑制の美学」からは、よくないことかもしれません。
もちろん、やたらに泣く男は、「女っぽい」「女々しい」などと揶揄されるように、みっともいいものではありません。

しかし・・・

しかし、抑制したからと言って、感情が沸き立たないわけでありません。
泣かないからといって、冷たいわけではないのです。
それは「我慢」をしているだけであって、人目をはばからない場所であれば、どんな男でも、愛する人の死に際して、号泣するはずなのです。泣かないことと、感情を持たないことは、関係がありません。

ですが、最近の世にあふれる、無表情、無感情、無感動、冷淡、知らぬふり、等の顔、顔、顔・・・はどうでしょうか。

コロナでマスクをしているせいもありますが、思い切り笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしている人を見る機会が、本当に少なくなりました。
これはいったい、どうしたことでしょうか。

それは少なくとも、「抑制の美学」などではありません。

一言でいえばそれは、「感情の欠如」なのです。

「汚れていないもの」「穏やかなもの」「清潔だと思われるもの」「感情的にならないもの」「喜怒哀楽を表さないもの」等々が、尊いとされる風潮が、今の世に広まっています。
そして、心の奥底を表現することが、「汚いこと」「恥ずかしいこと」「避けるべきこと」などとされがちなのです。

本当は泣きたい、笑いたいが、人前だからそれを忍んで抑制する、といったこととは違います。

云わば今の世の風潮は、泣くこと自体、笑うこと自体を「いけないこと」としてしまうのです。

これでは、人は人でなくなってしまいます。

人が人である所以は、感情を、心持を、喜怒哀楽を、精いっぱい表出出来ることにあると言っても過言ではありません。
それをするなというのは、人であることを捨て去れということに等しいのです。

あなたは、最近いつ泣きましたか?

人前で。

あなたの心の本当の姿を晒せる日が、早く来ますように。