味作りには哲学が必要である

あなたのお口は肥えていますか?

「私は味にうるさいのよ」

「ひと口食べれば、その料理のレベルがわかるさ」

と、食通を自認する方は多いです。それはすばらしいことで、それぞれにご自分の味覚である「基準」をお持ちであることの証明なのです。

料理は、素材を加工して味付けし提供するものです。

味を決める技術的な3つのポイント

ですから、料理の技術的なポイントがあるとすれば、次の3つでしょう。

1)●素材が良質でなければなりません
2)●加工技術(切る、焼く、煮る等)が優れていないとなりません
3)●味付けが上手でなければなりません

どれかひとつが欠けていても、美味しい料理は出来ません。
すべてが調和したとき、「ああ、美味しい!」ということになるのです。

ですから、お口が肥えた方というのは、

●素材の良し悪しが分かる
●加工技術の良し悪しが分かる
●味付けの良し悪しが分かる

方であるわけです。普通はなかなか、この全てをクリアーできる方は少ないですね。

一般的には、日常的にこういう作業をしている人たちが、それに当たりますね。つまり、プロの料理人の方々は、日々こういうお仕事をしているわけですから、自然と素材を見る目は肥え、技術は磨かれ、たくさん味見をして、お口も肥えるのです。これは当然のことですよね。

ただ、それでも・・・・

なかなか、「本当の味の価値」を測ることは難しいものです。
私自身も、キムチやラーメンや唐揚げなどの、自分の専門分野については理解できますが、専門外の味の判断はなかなかしずらいものです。

ただ、こうした「技術的な側面」とは別に、料理人の「哲学的な側面」が、さらに重要になるのです。

料理には、哲学が必要である

料理人は、その料理を作ってお客様に召し上がって頂いて、 何をお客様に伝えたいのか・・。何をお客様から得たいのか。そこが問題となります。

単純に、売り上げが欲しい、利益が欲しい、お金が欲しいだけなのか。
あるいは単純に、空腹を満たしてあげたいだけなのか。

私は、「食は哲学である」「食は芸術である」と、よく考えます。

食べることは、ただの生きるための栄養摂取行為では無いのです。

食べるもので人は成り立つわけですが、体の一部になるということは、物質的な意味だけではなく、精神的な意味も大いに含みます。物心両面での「価値」を提供する行為が、料理なのです。
言葉を換えれば、食に対する考え方、自然に対する考え方、健康に対する考え方、あるいはさらに、人生に対する考え方、社会に対する考え方等をメニューに詰め込む行為が、料理です。

つまりは、あらゆる意味での「人間としての考え方」を表現する行為が料理であると言っても、過言ではないのです。
「哲学」を持たない料理は、決して一流のものではない、と言えるのです。

経済性、利便性のみを考えたものは、一流の料理とは呼べません。

化学調味料などの添加物を私が遠ざけるのは、こういう理由からなのです。

味を追求すれば、必ず無添加に行き着く

食品添加物を使う行為は、多くの場合、「食」を「お金」を稼ぐための行為として捉える姿勢から来る物です。
お金を稼ぐことは決して悪いことではありません。
ただ、それが第一の目的になったり、唯一の目的になったりしてはいけないのです。

なぜなら、添加物を使わないでも美味のものはできるからです。
いや、それだけではありません。

本当の美味を追求すれば、食は必ず「無添加」に行き着くのです。

やがちゃんキムチは、その姿勢で、製品つくりを日々しております。