物は焦げなければ匂わない

以前東京五輪の開催が決まった時に、「この五輪の動機に利権の匂いを感じる。今日本でオリンピックをやる理由はない」というような投稿を、何度かしました。

それを読んだ(だろう)知人たちから、その後何となく接し方を変えられたようにも感じていましたが、何ら意に介していません。思ったことを書くことには、誇りすら感じますから。

そのうえで今、五輪の組織委員会の関係者や関連業者の逮捕が報じられているのを見て、思います。

「火の無いところに煙は立たない」

「物は焦げなければ、匂わない」

煙が立つほどに派手に燃えれば、誰にでも異常は察知できます。
料理が正常に煮えていれば、いい香りしか漂って来ません。

しかし、どこかに異常があれば、料理はシグナルを発します。料理人はそれを察知したら、すぐに火を止めます。

料理以外の場面でも、「何か良からぬことが行われているな」という程度の「くすぶり」でも、おかしな雰囲気は感じられるはずです。それを口に出すか出さないか。それが大きな別れ道になることもあります。

「おかしい、何か焦げている!」と口に出せば、火を止める人は出てくるかもしれません。延焼が防げるかもしれません。大きな火事には到らないかもしれません。

五輪の事でこんな例えは不適切かも知れませんが。家庭の鍋の焦がしも、国家的プロジェクトの不正も、「人の間違い」ということでは一緒です。違うのはその間違いの規模と、もう一つ、

「意図した間違い」であるのかどうか

ということです。意図した間違いのことを、「不正」と言います。意図していなくても自分に多少でも原因があれば「過失」と言い、そうでない場合は「不運」と言うのでしょう。

五輪の組織委員会やJOCには、かつて国民の尊敬を集めた高名な元スポーツ選手がトップを務められていました。私自身も、現役時代の彼らの活躍に熱中し、自分の青春のエネルギーの燃焼の夢を重ね合わせて来もしました。
彼らは、焦げの匂いに気が付かなかったのでしょうか。
不正のくすぶりを感じなかったのでしょうか。

感じなかったとしたら、組織の長など引き受けなければよかったのです。たとえそれが過失であろうが不運であろうが、責任はあります。不運と言って済まされる問題ではありません。

結局、今回報道されている数億という単位の不正の金額も、あるいは五輪全体が残した数兆円に及ぶ負債も、これから背負っていくのは、「不運な国民」、つまり私達です。

背負っていくのだから、感じたことくらい書いてもいいでしょう。

私ごとき一介のキムチ屋が書くことは世間を1ミクロンも動かせませんが、私自身の気は多少は収まります。悲しいかな、市井の愚民が書くことはその程度でもいいのだと思います。

それでも、不正を感じ、焦げの匂いを感じても押し黙るのだったら、「木偶の棒」(でくのぼう)だと呼ばれても仕方ありません。
木偶とは木で作られた人形のことで、役に立たなければ、ただの棒に過ぎないから、木偶の棒と言うのだそうです。