知らぬ他国の夏祭り

 

松本清張原作の名画「張込み」の1シーンに、刑事役の宮口精二が

「知らぬ他国の夏祭り、か」

とつぶやく場面があります。

知らぬ他国の夏祭り・・このシーンは、犯人を追って東京から九州の佐賀までやってきた刑事の独白で、その町では夏祭りの季節でした。
孤独、徒労、不安・・・そういった感情が、この一行によく表れています。

今、東京で「知らぬ他国の夏祭り」が開かれています。

東京オリンピック 2020。

日本という国も、東京という街も私はよく知っています。生まれた国であり、育った街でありますから。

それでも、この夏祭りをやるような国は、私は知りません。

それは、以下の理由です。

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五輪がとうとう始まりました。

開会式の中継を見ていて、私は寝てしまいました。それでも、感想は人それぞれ。
それについてはここでは書きません。

それより、今更ながら、開催自体について、個人の独白。
誰に対してでもない、個人の率直な気持ちが整理できましたので、書き留めておきます。あくまで、個人的にです。

ですから、僭越ながら、否定的なコメントはお断りです。

コロナなんか無かった7年前に、開催が決まった瞬間からずっと東京五輪に反対してきました。あちこちで書いてきたから、ご存じの方もいると思います。それがついに開幕したので、いよいよかという気持ちです。

それでもやっぱり、日本選手が健闘するのを見ると嬉しくなる。率直に、そうです。

これはどういうことかな・・・?と自問自答して、答は出ました。

競技やアスリートは何にも悪くない。
スポーツは素晴らしい。
スポーツという言葉は「非日常」という世界を表す言葉につながり、「日常」からかけ離れた時間と空間で、普段は「生きるため」にだけ活動する人たちが、より活力を得られる高い次元のパフォーマンスをしたり、見られたりする場なのです。

その意味では、演劇や「祭り」と一緒です。

オリンピック精神自体も素晴らしく高邁なもの。

古代オリンピックは、小国同士の戦争が「日常」であったギリシャで、4年に一度は武器を捨ててスポーツという「祭り」で集おうという、当時の人間の叡智から生まれたものです。
まさに、非日常の「スポーツの祭典」であったのです。

その精神を、19世紀末にフランスのクーベルタン男爵が、長年の戦火に揺れるヨーロッパ諸国に提唱して始めたのが、今の近代オリンピックです。
開催中は戦争行為をやめ、敵国同士もスポーツの場で、平和に競おうという、「非日常の祭典」なのです。
だからオリンピック自体の元来の精神は、平和を愛する人なら誰も否定できないものであり、文句なく美しいものです。

そして、日本人である私が、自分の国である日本を愛する気持ちももちろん強い。
結構社会の現状に批判的なことを書く私を「反日」と言う方々もいるようですが、そういう人たちは、単純な思考で単純な決めつけと表現をされるだけです。言葉を換えれば、「見識」が足らないだけのことです。

それはそれとして、五輪の精神は高邁であり、人が自国を愛する気持ちは強い。
だから、自国開催の五輪を、本来はもろ手を挙げて歓迎すべきでしょう。

ですが、今回の五輪については、決定的な事実があると感じています。
それは、この五輪誘致を決めた人たちの一部の「動機が悪すぎる」ということです。

彼らが目指したのは、一言でいえば、五輪開催による日常の中の「利権」でしょう。
政治的利権、経済的利権、権力的野望・・・。

今までの五輪でも、そういうものがあからさまに現れた例がありました。
ナチスが支配するドイツで開催されたベルリン五輪です。
この五輪でナチスがその正当性を世界中に示した後、世界は未曽有の戦火の時代に突入していったのです。まさに、五輪の精神の悪用と破壊であったと言えます。

それでは、今回の東京五輪。

その開催の意義は、何なのでしょうか?

復興五輪? まだ、震災復興は道半ばです。
コロナに打ち勝った証の五輪? 今、コロナ禍の最中です。
どんな美辞麗句も空疎に聞こえ、とてつもなく大きな違和感を感じます。

1964年の「戦後復興の証」として行われた前回五輪にももちろん利権はありましたが、それは、利権というよりも、復興の結果として普く(あまねく)国民に降り注がれた「国益」というものでした。

これを契機に、新幹線や高速道路が出来、都市部の近代化が急速に進み、日本が世界の先進国の仲間入りをしたのです。あきらかに、「国益」を増した五輪でした。

TOKYO2020には、そういう国益がありません。
一部の関連業界や企業や圧力団体の利権という次元に留まっている。
まさに、「矮小な世界の巨大な利権」なのです。
普く国民に降り注ぐ国益などは全くなく、むしろ、終わったあとの負債が国民にのしかかってくることが明確です。

負債は、これからの世代が負担するしかありません。

だからでしょうか、今の若い世代は、今回の五輪に全然沸き立っていない。
五輪は若者の憧れのイベントでもなく、何処か別次元で行われる大きなスポーツイベントに過ぎず、その開催が自分達の負担になるのであれば、そんなものはやらないほうがいい、と思う人も当然多いでしょう。

コロナも、早晩終結します。
だから、コロナ禍を避けるために開催中止せよとは言わないし、もう始まっています。

アスリートたちは懸命にプレーしている。それは感動的です

だから、競技自体は楽しめばいい。
私だって、自分で経験してきた種目の競技(陸上・ボクシング)などは夢中で見るでしょう。
そして、日本選手が活躍すれば、それはとても嬉しいことになる。日本人ですから。

それでも、やはりこの大会の開催自体への疑念は残り、違和感は最後まで消えないと思います。
今、この時代に、この国で、確固たる理念がない五輪など開くことはなかった。
「矮小な世界の巨大な利権」だけが蠢いた五輪だったと、この先も思い続けると思います。

このような「祭り」をやる国は、私は知りません。

知らぬ他国の夏祭りが、進行しています。

 

以上、あくまで個人の雑感として書き留めました。

その上で、選手、善意の関係者の方々の健闘と健康を祈ります。

利を受けるか、利をとるか。(五輪が歪曲の祭典にならないように)

私は23歳の時から商売をしています。

それまでは学生でしたので、今まで一度も「従業員」として人の下で働いたことがありません。
常に、「店主」でした。

こんなに長い間商売をしてきて、紆余曲折はあったものの、結局今でも小さな店しか経営できていないのですから、経営者としては大した能力が無かったと、自ら認めざるを得ません。

商売にはお金の問題がつきもので、今までもずっと、お金のことで頭を悩ませて来ました。商人は皆さん、そうだと思います。

たとえば、月に100万円儲かりたいとします。

大体これくらい売って、そこから仕入金額を引いて、さらに家賃や人件費や諸経費を引いて、さあ決算してみると、なんだ、30万しか残っていないとか、あれれ、赤字だったとか、よくある話です。平凡な商人としての私の実力は、こんなものです。

ところが、ある種の人たちは、違います。

100万円利益を取ることを最初に設定してしまうのです。
100万円を残すためには、仕入れをこのくらいに、経費をこのくらいしなければならない。売り上げがこれしかなければ、一つ一つの商品にこれくらいずつ利益を乗せなければいけない・・・・と、凡人の私とは逆の計算方式で、強引に100万のお金を残してしまいます。

なるほどなあ、さすがだなあ、と感心します。

こういう方々には、すべてが見えているんだろうな、自分もそうなりたいな、などと思うこともあります。
少なくとも、かなり以前の私は、そう思っていました。

ですが・・・。

何かが足らない。何かが。そう感じています。これではいけないのです、足りないものがあります。決定的に足りないもの・・・それは何か・・。

「お客さん」の気持ちは、どこにあるんでしょうか?
「お客さん」は、利益を吸い上げる対象なのでしょうか?
「お客さん」の気持ちを汲み取ることを第一にできないのでしょうか?

といった、「お客さん目線」の問題。これが欠如していますね。

そして、お客さんにとって、「より良い商品」を提供していくという姿勢の欠如にもつながります。
目指すもの第一が「利益」なのですから、そういう結果になってしまいます。

そして、その根本のところにあるのが、「理想の欠如」ということになるのだと思います。
理想であり、「哲学」の欠如と言ってもいいでしょう。

 

自分は何のために商売をするのか。

それはある「哲学」をもち、そこから生まれる「理想」の状態に少しでも近づくために、物つくりを研究し、精査し、商品化し、お客さんに問うていく。
それがお客さんにとっての理想に近いものであれば、購入していただける。
支払っていただける金額は、あくまで「対価」であり、本来は、作ることにかかった費用と同等であるべきだとも言えます。
しかしそれでは作り手の生活が成り立たないので、生活を維持できる程度の利益を上乗せさせていただく。

利益とは、本来そのようなものであるべきではないでしょうか。

もっといい家に住みたい。いい車に乗りたい。いいものを食べたい。贅沢をしたい・・・・そういう思いは、誰にもあります。もちろん私にもあります。
ですがそれが度を越えてしまうと、人は何かを失います。
その何かとは・・・。
たとえば、知性であり、品性であり、品格であり、人間としての尊厳のようなものかもしれません。
人は、驕奢に走ると、留まるのが難しくなります。

100万円を得ると、1000万円が欲しくなります。1000万円を手にすると、1億円が欲しくなります。
この「アスピレーションコンプレックス」にひとたび陥ると、なかなか抜け出させません。
私もかつては、そのような時期がありました。
ひと時の「バブル時代」というのは、日本中がそのような潮流に覆われた時代でもありました。

まずは、基本に戻らなくては。商売の基本にです。

商売は、利を奪うためのものでありません。

商売の利は、正当な対価として、お客さんから「受けるもの」です。

このブログを書くのに、表現に行き詰まり、何日もかかってしまいました。
途中で間違ってアップしたりもしてしまいました。

その間、オリンピックの無観客開催が決まったり、緊急事態宣言の再発令が決まったりしています。

 

 

さて。

今回の東京五輪は、何のためのものでしょうか?

そこにある理想や哲学はどういうものなのでしょうか?

私はスポーツが大好きです。特に自分で体験してきた陸上競技やボクシングには、熱中します。

それだからこそ、今回の五輪は、本来あるべき姿が極限まで捻じ曲げられた、歪曲の祭典となってしまうような気がします。

願わくば、期間中もその後も、コロナ感染者や重症者、死者が増えずに、テロも起こらないことを。

人々が、正常な「理想」を持てる世界の再構築のきっかけになるように。

非常に困難ではあるでしょうが。