美味しいと不味いの境界線・・・無添加になった理由

食事の場面で一番使われる語彙は、「美味しい」でしょう。

「あの店は美味しいよ」「まずくて食べられたものじゃないよ」というように。

いったい、美味しいと不味いの境目はどこにあるのでしょうか。それを考えてみたいと思います。

たとえば、あるレストランを予約しようとする場合。電話予約の場合も多いと思います。

電話で、「何月何日の何時に3人で行きたいのですが。AコースとBコースとCコースでお願いしたいのですが」と頼んだとします。それに対するお店側の返答が、以下のようなものであったら、どうでしょうか?

1)皆さん同じコースでお願いしたいのですが(一つ一つ別々に作るのが大変なので)

2)同時に3名分出しますが、3つのコースを、同じお皿に一つに盛っていいですか?(盛り付けがたいへんなので)

3)皆さん別々のコースなので、出来上がりに差があります。別々の調理時間をいただきたいのですが、それでよろしいですか。

4)はい、同時にすべて別々の盛り付けでお出しします

 

私見ですが・・・

1はもちろん、論外ですね。
メニューに3つのコースが表示されているのですから、3種類注文されたら、作る義務があります。3種類を作れないのなら、表示するべきではありませんね。

2もよくある例ですが、これももちろん論外です。
メニューの写真等は、多くの場合1人前の盛り付けで撮られていると思います。それが3種類となれば、当然3種類の別々の盛り付けで出さなければいけませんよね。
こういう「一緒盛り」をすると、結果的に一人当たりの量が少なくなるのではないか、などという、つまらない憶測や疑念を生みます。作業が大変だからやらないのなら、最初から店をやるべきではありません。

3も、やはり失格ですね。
3人でお客さんが来て、別々の時間に料理が運ばれて来たとしたら、最後のお客はイライラしますし、先に来たお客も、食べるに食べずらいですよね。こんな気まずい時間をお客さんに提供したら、飲食店としては失格です。

お客さんは、ただ食事をするために来ているのではありません。
食べて、会話をし、感情を共有し、心と心を通わせるために来ているのです。その対価として、原材料の数倍(時に数十倍)のメニュー価格を支払うのです。
それが出来なければ、カップ麺とお湯をお客さんの前に同時に置いてあげた方が、まだましでしょう。
飲食店とは、そういう存在なのです。

 

話は若干逸れますが、コロナ時代の今、「黙食」とか、「マスク会食」とか、妙な提言がなされています。
それも、どうにも科学的根拠が乏しいと思わざるを得ません。どこのどういう飲食店で、どういう形の会食で「クラスター」が発生したのか、それがどれくらいの質量だったのか、そういうことを示されなければ、我々飲食業としては、はいそうですか、と思うわけにも参りません。

幸福な時間と場と、美味のメニューを提供したい私たちを、ぜひ納得させて頂きたいものです。

話を戻します。

上記1から3までは、いろいろな意味で、飲食店としては失格点でした。それなら、4なら、「合格」で決まりでしょうか?

いえいえ、そうたやすい問題でも無いのです。

4の時点では、まだ、メニューを提供しただけに過ぎません。いわば、スタートラインに立っただけです。肝心の「中身」の問題が残っています。

まず、提供したメニューが、もちろんですが、美味しくなくてはなりません。

味の問題は、極めて主観的な問題ですから、「どれくらい美味しい」とかを、数値で図るわけにはいきません。ただ、「すごく強烈な味で美味しい」「素材の味が生きていて美味しい」「家庭的で美味しい」「まろやかで優しい味で美味しい」・・・というような、いわば「味の主張」が為されることが必須だと思います。
人は食の好みがそれぞれですが、どのような内容であったにせよ、そこに、他のものとは一線を画する「特徴」がなければ、価値は半減します。
そして、その「価値」を左右するのが、店や料理人の「哲学」であると、私は強く思っています。

自分や自分たちが提供するメニューで、何を表現したいのか。
何を問いかけたいのか。
何を訴えたいのか。

それがどのようなものであれ、そのような働きかけがあれば、それを食する人の心は動きます。必ず動きます。

それはあたかも、美術作品と同じなのです。

芸術家が全力で描いた油絵や版画や彫刻を鑑賞して、感じ入って感動するように、料理人が全力で提供したメニューで、感動する。

それは時に、その人の人生観すら変えることがあるかも知れません。美術作品ではそれはよくあることですが、「食」でも、あっていいともいます。

そのくらいの力が、「食」にはあります。

ですから、上記1から3まではもちろん失格ですが、4においても、その力を示していかなければ、人の心を動かすことはできません。そこまで出来て、初めてお客さんから及第点を頂けるのではないでしょうか。

僭越ながら、やがちゃんキムチの場合は、可能な限りの美味しさを提供し、食する方に心を和らげていただきたい、という思いがあります。
「真に美味なるものは人の心を和らげる」
それが私の哲学です。
それを追求した結果、自然と「無添加」に行き着いたのです。決して最初から無添加を目指したわけではありません。
最初に目指したのは、食する人の心を和らげることだったのです。

美味しいと不味いの境目とは、実はこれだけの意味を孕んでいます。

たかが食事。されどそれは、人生の重要な場面であると、私たちは肝に銘じて、料理人としての「作品」を提供できるように努力しなければなりません。