無添加への道のり (旨味素材の工夫)

やがちゃんキムチの全商品は、「食品添加物無添加」です。

保存料や着色料等はもちろん、アミノ酸・核酸等の化学調味料だけでなく、一般的に添加物とはされない「酵母エキス」や「たんぱく加水分解物」なども使っておりません。

「味」作りにおいて、人工的な合成物を使ってはいない、ということです。

ですが、別にこれは、ベジタリアン、ビーガンやマクロビオティック等の考え方に基づいているわけではありません。私自身は、日常生活においては普通の食生活をしていますので、添加物も結構摂っています。

≪やがちゃんキムチは、ビーガンやマクロビの考え方とは無縁です≫

 

ただ、当店の作る商品には、もちろんそういった化学合成物は使っておりません。

理由は単純です。

「本当の美味を追い求めた結果、気が付いたら無添加になっていた」のです。

決して「無添加にするべきだ」という考え方から出発したわけではないのです。

それはどういうことか、以下に書き連ねます。

私がキムチ業を始めたのは、身近に韓国出身の方が居て、その方が私が当時経営していた会社の商品一つとして、キムチを作ってくれたのが始まりです。

当時のキムチはそれなりに美味しかったですが、別段無添加ではありませんでした。
否むしろ、「え、こんなに入れるの?」と言うくらいに、大量の化学調味料(味の素やハイミー、ほんだし等)を使っておりました。
それでも結構売れたので、特に気にしておりませんでした。

ところが、その韓国出身の方が事情で帰国し、キムチ担当が居なくなって、私自身が受け継いで思いました。
「こんなに合成物を入れて、本当にいいものなのだろうか」と。

そこで、試しに、化学調味料をゼロにして作ってみたのです。
その結果・・・・まずくて食べられたものではありませんでした。あの白い粉たちを入れないと、こんなに腑抜けの味になってしまうのかと驚いたのです。

そこで工夫してみました。

味の素の旨味は「グルタミン酸ナトリウム」です。
そのグルタミン酸を多く含む出汁素材と言えば、昆布ですね。そこで、キムチのタレ造りの時に、たくさんの昆布を煮だして使ってみました。

結果、「あ、昆布の味がする」程度のものでした。微かに旨味が増えた感じがする程度です。
そこで、昆布の量を増やしてみました。2倍、3倍、4倍、5倍、10倍と・・・! 鍋に入りきらないくらいの量まで使ってみました。

入れれば入れるほど、タレの旨味は増します。
ですが、化学調味料のあの味の強さには遠く及びません。
憶測ですが、「味の素」1キロ分の旨味を昆布で出すには、おそらく100キロ以上の昆布が必要なのではないかと思えました。それくらい、化学調味料の味は強力なのです。

それならば、と考えました。
「旨味」の要素は、グルタミン酸だけでは無いだろう。他の要素は何かないのか、と。
そこで、和食の「出汁」の世界に顔を突っ込みました。

ありました、ありました。
グルタミン酸以外にも、イノシン酸は魚介類に、グアニル酸は干ししいたけ等に。コハク酸は貝類や酒に。そしてこれらを組みあわせて使うと、旨味が相乗効果的にどんどん増していくことにも気づきました。

そして自然に、こうした素材の使う量は増えて行き、量の組み合わせにも一定の法則があることが分かりました。
結果として、かなりの量の化学調味料の使用を減らせました。

ただ、ゼロにするとやはりどこか、物足りなくなります。「腑抜け感」がどうしても漂ってしまうのです。

いくら無添加でも、美味しくなくては失格です。

やはり、完全に無添加にするのは無理なのだろうか?・・・・いや、そんなことはない!
まだまだ、工夫の余地はあるはずだ。
そう、思ったのです。

そして、こうした「旨味」の側面以外にも、もっと工夫を重ねてみようと思いました。

出発点は、あくまで、「美味しさ」の地点です。
ゴールが、「完全無添加」の地点です。
それが決まりました。

だから、要は、美味しさの追求から入ったわけであり、思想や哲学的な「無添加至上主義」では無かったのです。ここが、他の無添加メーカーさんとの大きな違いだと言えると思います。

以下、次号に続きます。

※なお、このテーマについては、拙書「秘伝レシピ公開! 無添加で超美味を実現するとっておきの現場ノウハウ(アマゾン電子書籍・定価2万円)」に詳細に書かれています。その読者さん方のために、このブログでは細部にまでは触れられませんので、ご了解ください。

沖縄の海

50年前、私は都立高校の2年生でした。

その高校は高校学園紛争の象徴のようなところで、「自由と責任」を強調し、生徒の政治活動には極力寛容。私生活にも寛容。制服も校則もなし、授業の出席も自由。試験もないし、成績順位もつけません。

大学のような「自主ゼミ」もあり、生徒が「自分で考えること」は大いに推奨したものですから、この年の沖縄の本土復帰については、友人同士で教室で大いに語り合ったものです。

本土復帰のその日か次の日かだったと思います。
しょっちゅう嫌がらせに来る右翼団体の街宣車が、授業中なのに校庭の脇で大音量でアジテート演説を始めました。

「〇〇高校の諸君、君たちの学校の教師はクズばかりだ! もっと歴史を学びたまえ! 大和魂を学びたまえ!」などと怒鳴り立て、授業どころではありません。

あまりにうるさいので、私と仲良しのN君が合図して、「やっちまおうぜ!」と立ち上がって、教室を出ました。先生は止めもしませんでした。

校庭に降り街宣車に近寄った私とN君は、フェンス越しに「うるせー!帰れー!」と叫び、校庭の石を投げ始めました。パチンパチンと、石は街宣車に当たりました。

中から、迷彩服を着た男性が飛び出てきて、「てめーら! この野郎!」などと叫んで走り寄って来ましたが、フェンスがあって上って来れません。
私達はその男性にも、石を投げつけました。

男性は堪らず車に逃げ帰り、またマイクで、「おまえたちの学校は間違っているぞー!」などと叫びながら、走り去っていったのです。

校庭を戻る時、教室からクラスメイト達が顔を出し、「よくやったー!」と拍手をしてくれました。手を振って応えました。他の教室からも、「いいぞー!」という声が掛かりました。

その後、先生や学校からのお咎めはありませんでした。

N君と私は、共同で文学同人誌を作って校内で配ったりした仲でしたが、N君はその後東大文学部に進んでビール会社の企画関係の部署に就職し、私は私大の文学部に進んだあと、一時は原理的な右翼思想に影響されたりもしましたが、親の急死で家業の小さな商店を継ぐことになり、それきり文学生活には別れを告げました。

それから10年も経ったころ、ビール会社の営業マンに連れられて、突然N君が私の店にやって来ました。
エリートサラリーマンになっていた彼は相変わらず受け答えに賢さがあふれていましたが、沖縄返還の日のあの石投げ事件の話になった時には、少年の顔になって「あの時は楽しかったなあ」と笑っていました。

とにかく、あれから50年。
沖縄は相変わらず、日本で一番貧しい県のようです。
米軍基地もそのままです。
もう左翼でも右翼でもなく、ただのキムチ屋の主人でしかない私も、「何とかならないものか」と思うことがあります。
今、石を投げるべき相手は誰か。いるのかいないのか。
石を投げなくても、思いを馳せるところは、どこか。
そもそも、大和魂とは、沖縄の心とは、いったい何なのか。それに答えられる者がいるのか・・。

キムチを自分で作って、吹けば飛ぶような商売をしている身には、いろいろと思いが浮かびますが、文章にはなりません。

何はともあれ、健康であること。体もそうですが、それ以上に頭も、考えることも。

今堂々と言えることは、そうやって自分の心を養いながら、さらによりいいものを作り、人様のために商うことだけが、するべきことだということです。

年齢を重ねて来ると、友人関係も無理には広げたくなくなるものです。
自分の真実の姿を理解しようとしない、あるいはできない人たちとは、敢えて近しくなろうとしなくなります。一言でいえば、好きな人とだけお付き合いするようになる。

場所もそうでしょう。今更、行きたくない場所には行きたくない。
好きな場所には、何度でも行きたくなります。

どうやるか、ではなく、何を何故やるか

久々の投稿です。1年近く経ってしまいました。
様々の事がありましたね。
ウクライナの侵略戦争は2月に始まり、いまだに終わりません。
東京五輪は、はるか昔のことのようです。
コロナは、ようやく終息するようです。

長く生きてきて、いろいろ技術革新を見て来ました。

通信手段の「電話」にしても、ほとんど全部見てきた気がします。

自宅に黒電話が入ったのが小学生の時。父があちこちに「電話が入ったよ」と嬉しそうに知らせていた光景を記憶しています。

プッシュホンになったのが中学生の時。同級生の女の子と長電話して、母に怒られました。

ポケベルを使ったのが40年前の20代の時。鳴ると慌てて公衆電話を探して、自宅(兼会社)に連絡しました。

ショルダーバックのような初期の巨大な携帯電話を買ったのがが35年前です。通信料が月に10万円はかかりました。当時、北海道で商売をしていましたが、その店の駐車場で車の屋根に携帯電話を乗せて、東京によくかけていました。屋根に乗せないと、電波が通じなかったのです。

折り畳みのガラケー携帯が30年くらい前から使いました。段々小さくなり、メールが打てるようになったり、ネットの画面も見られるようになりました。ワンセグのテレビまで見られたので、重宝しました。北京五輪の400メートルリレーで日本が3位に入った時は、このガラケーでテレビを見て興奮しました。

シャープのザウスという端末を使ったのが20年前。エッジと呼ばれる差し込み式の通信機を指して、ネットを見られました。速度は遅かったですが、それなりに便利でした。

スマホの初代(iphone3)は15年位前に、渋谷の友人の店で初めて見ました。
指先で画面のサイズを広げる機能に感心して、すぐに買いました。「これで電話ですべてが出来るな」と思った時でした。

wifiは当初、無線LANという言葉で語られ、ある団体の勉強会で知り、驚きました。

インターネット自体に触れたのが25年位前。
ネット通販でキムチを売り始めたのが20年ちょっと前。
今の自社サイト開始は15年前です。

この長い利用履歴の中で、わかったことがあります。それは・・・

「人はちっとも変わらない」

ということです。

こういう技術革新は。それ自体はただの「手段」。
少し遅れたからといっても、そのうちいやでも手にするようになるから全然大丈夫です。

問題は、こういう技術の嵐の中で、自ら「何」を作るか。創るか。
さらには、どういう哲学を背景に持つか、・・・ということでしょう。

「何をやるかで業績の7割は決まる。どうやるかでは、3割しか決まらない」と、尊敬するある方から何十年も前に学んだことは、やっぱり正解でした。

方法論ばかりに右往左往するより、しっかりとした哲学を持て。
方法などは、そのうちいくらでも現れる。
その通りの時代になっていますね。

要は、「お前は何者なのか?」という問いに、すぐにはっきりと答えを出せる存在になれ、ということです。

時代の中で浮わついていてはいけない。
たまたま時流に乗っても浮かれていてもいけない。

地面に根の張った、不動の姿勢をとれるかどうか、です。
結局、自分という人間などは、ほとんど進歩していないのですから。