人生最後の食事に何を食べたい?・・・・という質問をよく見ます。
大好物のメニューを答える人もいますし、「卵掛けご飯」とか、「裏山の水」とか、シンプル素朴な答えも良く見ます。
私ならどう答えるか。
一つに絞るのは大変ですが、すらすらと、次の5個のメニューの名前が出てきました。
1)味噌チャーシューメン
2)カツカレー
3)カニチャーハン
4)カルボナーラ
5)カルビ丼
我ながら、すごく庶民的ですね・・・。
生まれは信州の人里離れた山奥で、育ちは東京下町の商店街。骨の髄まで庶民です。
しかし、もっと真剣に考えれば、「何を食べる」より、「誰と食べるか」の問題に行き着きます。
たとえご飯とお新香とイワシ焼きだけでもいいから、「最後に会いたい人」と一緒に食べたいです。
あの方、あの人、いいや、あいつかな・・・?
いえ、違います。
やっぱり、家族です。。血を分けた家族や近親者と会いたい。
できれば、死んでしまった父母や祖父母とも。
小さなテーブルを挟んで、何も語らなくていいから、向き合って食べたいです。
言葉など無くてもいい。ただ、顔を見合って食べたい。
病院勤務の方に教わりました。
病院では、あらかじめ許可を得ていない限り、何人(びと)も、たとえ絶命していても、近親者が来るまでは救命措置を続けなくてはならない。近親者が到着したうえで、死亡を確認するのだそうです。
元首相の思想信条は概ね受け容れられませんでしたが、立ち位置のはっきりした、大きな存在でした。
それでも、非業の死を「同情」や「神格化」につなげても意味はありません。
ましてや、政治利用するなど、もってのほかです。
今するべきことは、暴力では何も解決しないことをあらためて胆に銘じるべきことでしょう。
もうすぐお盆ですね。
先祖が帰ってきます。
敬虔に構え、今後の自分の生き方を、亡くなった親族に問いかける時でもあります。
生きている者と彼岸の人たちとの違いは一つ。
生きてる我々は、前に進むことが出来ます。彼岸の人は、我々の思いを聞き、見守ることしかできません。
。
つまり、前に進む行為そのものを、「命」と呼ぶのだと思います。
命ある私たちは、様々な制約を受けながらも、進みます。前へ。
生きているから、そうしなければなりません。