私は23歳の時から商売をしています。
それまでは学生でしたので、今まで一度も「従業員」として人の下で働いたことがありません。
常に、「店主」でした。
こんなに長い間商売をしてきて、紆余曲折はあったものの、結局今でも小さな店しか経営できていないのですから、経営者としては大した能力が無かったと、自ら認めざるを得ません。
商売にはお金の問題がつきもので、今までもずっと、お金のことで頭を悩ませて来ました。商人は皆さん、そうだと思います。
たとえば、月に100万円儲かりたいとします。
大体これくらい売って、そこから仕入金額を引いて、さらに家賃や人件費や諸経費を引いて、さあ決算してみると、なんだ、30万しか残っていないとか、あれれ、赤字だったとか、よくある話です。平凡な商人としての私の実力は、こんなものです。
ところが、ある種の人たちは、違います。
100万円利益を取ることを最初に設定してしまうのです。
100万円を残すためには、仕入れをこのくらいに、経費をこのくらいしなければならない。売り上げがこれしかなければ、一つ一つの商品にこれくらいずつ利益を乗せなければいけない・・・・と、凡人の私とは逆の計算方式で、強引に100万のお金を残してしまいます。
なるほどなあ、さすがだなあ、と感心します。
こういう方々には、すべてが見えているんだろうな、自分もそうなりたいな、などと思うこともあります。
少なくとも、かなり以前の私は、そう思っていました。
ですが・・・。
何かが足らない。何かが。そう感じています。これではいけないのです、足りないものがあります。決定的に足りないもの・・・それは何か・・。
「お客さん」の気持ちは、どこにあるんでしょうか?
「お客さん」は、利益を吸い上げる対象なのでしょうか?
「お客さん」の気持ちを汲み取ることを第一にできないのでしょうか?
といった、「お客さん目線」の問題。これが欠如していますね。
そして、お客さんにとって、「より良い商品」を提供していくという姿勢の欠如にもつながります。
目指すもの第一が「利益」なのですから、そういう結果になってしまいます。
そして、その根本のところにあるのが、「理想の欠如」ということになるのだと思います。
理想であり、「哲学」の欠如と言ってもいいでしょう。
自分は何のために商売をするのか。
それはある「哲学」をもち、そこから生まれる「理想」の状態に少しでも近づくために、物つくりを研究し、精査し、商品化し、お客さんに問うていく。
それがお客さんにとっての理想に近いものであれば、購入していただける。
支払っていただける金額は、あくまで「対価」であり、本来は、作ることにかかった費用と同等であるべきだとも言えます。
しかしそれでは作り手の生活が成り立たないので、生活を維持できる程度の利益を上乗せさせていただく。
利益とは、本来そのようなものであるべきではないでしょうか。
もっといい家に住みたい。いい車に乗りたい。いいものを食べたい。贅沢をしたい・・・・そういう思いは、誰にもあります。もちろん私にもあります。
ですがそれが度を越えてしまうと、人は何かを失います。
その何かとは・・・。
たとえば、知性であり、品性であり、品格であり、人間としての尊厳のようなものかもしれません。
人は、驕奢に走ると、留まるのが難しくなります。
100万円を得ると、1000万円が欲しくなります。1000万円を手にすると、1億円が欲しくなります。
この「アスピレーションコンプレックス」にひとたび陥ると、なかなか抜け出させません。
私もかつては、そのような時期がありました。
ひと時の「バブル時代」というのは、日本中がそのような潮流に覆われた時代でもありました。
まずは、基本に戻らなくては。商売の基本にです。
商売は、利を奪うためのものでありません。
商売の利は、正当な対価として、お客さんから「受けるもの」です。
このブログを書くのに、表現に行き詰まり、何日もかかってしまいました。
途中で間違ってアップしたりもしてしまいました。
その間、オリンピックの無観客開催が決まったり、緊急事態宣言の再発令が決まったりしています。
さて。
今回の東京五輪は、何のためのものでしょうか?
そこにある理想や哲学はどういうものなのでしょうか?
私はスポーツが大好きです。特に自分で体験してきた陸上競技やボクシングには、熱中します。
それだからこそ、今回の五輪は、本来あるべき姿が極限まで捻じ曲げられた、歪曲の祭典となってしまうような気がします。
願わくば、期間中もその後も、コロナ感染者や重症者、死者が増えずに、テロも起こらないことを。
人々が、正常な「理想」を持てる世界の再構築のきっかけになるように。
非常に困難ではあるでしょうが。