コロナ問題勃発から数か月。
世界中で悲劇となり、日本でも相当の影響が出続けています。まさに、世が一変しました。
それでも、日本では自粛が解除され、また生活や経済が動き出しています。
数か月の空白を埋めるべく、誰もが必死です。
そうした中で、食の世界では何がどう変わったのか。
変わりつつあるのか。
これから先には、どうなるのか。
それを、この業界の人たちは必死に考えています。私も考え続けています。そして、今のところ行き着いた答えは、わずかながらあります。
全体に言うと、「不要なものは淘汰される」です。
不要なものとは何か?
それは、食が本来持つ役割とは無縁であることです。
食が本来持つ役割とは、何か。
一つには、栄養摂取。人は生きるために、食べなくてはなりません。
しかしそれだけでは、人は単なる動物に過ぎません。種の保存だけの理由で、人は物を食べるのではありません
人が人である所以は、「幸福を追求すること」です。
このことに、食は深くかかわっているのです。
少しでも、生を意義あるものにするために、生きる喜びを感じるために、人は食べるのです。
この、「幸福を追求」することに関係のないと思われる「食」は、これからの時代には淘汰されるのではないか。そう思えてなりません。
たとえば、飽食。
必要以上に食べ漁り、挙句の果てには貴重な食材を無駄にしてしまう。
食材の乱獲もその一つかもしれないです。このような食の形態は、これから許されないこととなるでしょう。
たとえば、不要なブランディングや格付け。
食に順位をつけて、権威付けや拡売を狙う行為は、食本来の価値判断を邪魔し、利用者に不当な差別感を植え付けます。これをビジネスとして行う行為は、厳に慎むべきですし、将来的には、消滅していくと思われます。食する人は、それほど馬鹿ではないのですから。
たとえば、不要で過剰な添加物や化学製品の利用。
全てがいけないとはいいませんが、低温流通や保管技術が進んだ今、それでも利益目的でなお食品添加物を過剰に使用したり、化学肥料や飼料を大量に使用したりする行為は、不要でもあるし、食の聖なる部分を犯す行為だとも言えます。
経済的にそれを使用せざるを得ないと言っても、長い目で見たら、人の健康や幸福を害する行為にもなります。
食材は、必要なものを必要なだけ、可能な限り自然近い形で利用する。それが本来の「美味」を生み、人の心に触れるのです。
やがちゃんキムチが「無添加」を標榜するのは、売るためにそうしているのではありません。
美味を、美味を、と研究するうちに、自然と無添加に行きつくのです。
これは、自信をもって断言できることです。
食品添加物を安易に使用しないことは、自然の食材を濃厚に使うことにつながり、美味の実現と保存性を高めることにつながります。見た目も、自然の色合いや形で、不要な「お化粧」を避けられます。
ただし、無添加美味の道は決して生易しいものでもなく、それ相応の学習と忍耐が必要です。食の職人には、その覚悟が求められます。
外食店舗も、今後はある程度整理されてしまうかも知れません。
ただ出来合いの冷凍ものを揚げたり解凍したりして出すだけでは、食する人の心を動かすことなどできません。チェーン店はもとより、個人店でもそういうお店が目立つのは嘆かわしいことですが、猛烈な自助努力をして、食のレベルを上げることが出来なければ、これからの「選別の時代」に生き残ることは難しくなります。
すべての大きな理由は、
「食によって人々を幸福にする」
という使命を果たしていないから、ということになります。
食の世界以外でも、同様な動きが見られると思います。
人の選別の能力は、高まっています。
食でも食以外でも、「本質的なもの」だけが残る。
そういう時代になって行くと思います。