松本清張の名作「真贋の森」。久々に読みました。
優れた作品というのは、繰り返し読んでも、読むたびに新たな感動や気付きがあるものですね。
実力のある初老の美術評論家が、田舎に埋もれていた模写の名人を徹底指導し、著名な日本画家の贋作を次々と画かせます。
それを自分を排斥した学会中枢の評論家達に鑑定させ、「真作発見!」と発表させた後、「あれは自分が指導した田舎作家が画いた一連の贋作だ」と公表し、彼等に大恥をかかせるという筋立てです。
計画は周到に進められましたが、いざ公表寸前という段になって、頓挫します。
計画の一端を、なんと田舎作家が知人に漏らしてしまったのです。
田舎作家にしてみれば、「これだけそっくりに画ける自分は天才である」という自負を持ち始め、それを誇りたいという衝動がそうさせたのでした。
こうして、報復の計画は果たされずに終わります。
こういうストーリーなのですが、今回の読後私は、「真贋」の問題を「食品」に当てはめたらどういうことになるのかを考えました。
食品は芸術ではありません。食べればなくなりますから、「作品」として残すことも出来ません。
ただ、食する人の「感動」を呼ぶこともあるのも事実です。
それが芸術的感動に匹敵する瞬間があることも、時にあります。
ただ、それであるからこそ、「真贋」の問題が起きることがあるのかもしれないです。
今の世の中、ネットで食べた感想を気軽に書き込めますし、それを評価制にしたり、ランキングとして表現することも流行っていますね。やがちゃんキムチのメニューも、多くの方がご評価を下さっています。
そんな中、「食通」と自称する人もいます。その方々の評価は、影響力を持ちますね。
でも、食品に「真贋」があるのでしょうか?
無添加だから正しいとか、添加物で偽装しているから間違っているとか、ここではそういうことは書きません。
「正しい」「本物」と自称する人には、どこか胡散臭さも漂います。
そういうことではなく、毎日食品をこの手で作っている立場として、今言えることがあるとすれば・・・
1)食べるものに対する評価は千差万別。ポイントやランキングがあるのは結構だが、一番の基準は、個人の主観である
ということです。
カレーライスのランキングがあるとしても、たとえば私自身の「ベストカレーライス」は、子供のころ母親が作ってくれたカレーです。
朝学校に出かけるときに、「今日はカレーだよ」と母に言われると一日中ワクワクし、家に帰るのが楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。
同様の方は多いのではないでしょうか?
食べ物が美味しい、美味しくない、と評価する基準には、その個人の過去の思い出や経験も加わります。そこがまた、食べ物の奥深いところなのだと思います。
こう考えてくると、芸術でも同じことかも知れません。
私にとって「ベスト芸術」を挙げろ言われたら、ひとつに、ピカソの「青の女」という絵です。
これは、人生の進路に悩んでいた20代前半のときに上野の美術館のピカソ展で見たものですが、青が基調の女性像の唇の赤さが、当時結婚を考えていた女性を思い出させ、衝撃を受けたものです。(結局結婚は破談になりました)
もうひとつは、奈良の中尊寺の「弥勒菩薩」。
会社経営が思わしくない30代の時に奈良を訪れ、この像の前に座り、一時間も見入っていました。
これからどういう生活が待ち受けようとも、仏様は許してくれるのかな・・・ということを考えたのを覚えています。
そうです。
芸術作品に対する評価も、個人の生活の状況で変わるのです。
私たちは、自分というひとつの生きた存在として芸術に向き合うのですから、当然ですね。
芸術ですら、そうです。
食べ物なら、尚更ですよね。
食の「真贋の森」も、芸術同様に奥深いです。
ただ、どんな食でも、愛情が伴われて作られたものは、贋物ではありません。
本物です。食べて美味しくなくとも、本物です。
そこが、芸術と食品の違うところなのかも知れませんね。
食は、「作る動機」が重要なのです。
添加物を入れまくったり、誇大広告をしたりして売りまくり、自分の利益だけあればいいという姿勢で作るものは、どんなに美味しく感じられようとも、私には「本物」には思えません。
また、偉ぶって「俺のものこそ本物だ。おまえの作るものは贋物だ!」と言ってのける食の評論家の評価も、「贋物」の場合があるということですね。
評価は、絶対のものではありません。それを絶対のように表現してしまうひとは、真贋の森で迷子になり、ただ叫んでいるだけなのだと思います。
今日の結論。
人を愛するがゆえに作る食べ物に、贋物はない。
ただ己の利益のために作るものには、贋物がある場合がある。