本日の内容は、随想です。大仰な題名ですみません・・。
父母のこと
私の母は大正14年生まれで、長野の田舎町の勤め人の娘。父は13年生まれで、山奥の農家の長男でした。ともにもう他界しております。
嫁ぐときに母は、実母(私の祖母)に、「百姓の嫁になるだから、これからはおめえは食うものには困らねえからな」と言われて送り出されたそうです。昭和の23年。日本中が食べるものに困っていた時代です。父は2年前に抑留されていた中国から復員してきた旧陸軍の兵隊でした。
しかしやがて日本の食糧難は解決し、人は食べるものよりも「仕事」「金」を追求するようになります。高度経済成長の時代になるのです。
私が父母の間に生まれたのが、昭和30年。長野から東京に出てきた両親は、小さな食品店を始めていました。
私の記憶には、「食べ物に困った記憶、腹を減らした記憶」というものがありません。
どんなに忙しくても、母は私たち子供に食べさせてくれました。学校にも、弁当をもたせてくれました。
その代わり、父と母がお金のことで喧嘩している様子は、何度も見た記憶があります。
人が求めるものの順序
戦争で「命」を追い求め、
食料難で「食べ物」を追い求め
経済社会で「お金」を欲しがる・・・
人が欲求するものは、結局こういう順序で変わっていくのでしょう。
ならば、お金の次は?・・・・・お金の次は何でしょうか?
知恵と教養
お金の次にさらにお金を求める人も、きっと多いと思います。世界中が今、そういう人だらけなのかも知れないです。
でも、本来は、「知恵」なのでは無いでしょうか? 知性と言い換えてもいいです。
知恵。教養、知識。考える力。そういうものが今、実は一番必要な時代に入った気がします。
知恵さえあれば、無益な戦争を起こさないでしょう。人の命も、食べ物も、財産も奪いません。
人が人である理由は、ひとえに、知恵があるからだと思うのです。知性のある人は、他者を恨むより愛するべきであることを知っています。何故なら、過去の歴史で、一度も人は戦いで幸福になっていないという事実を学んできたからです。争うことは、虚しいことであると、知っているからです。
キムチだって役に立てる
私が作るキムチも、そういう知恵のある方が、「ああ、無添加で本当の美味しさに満ちているね」と言っていただけるようなものにしたい。
食する人の心を和らげ、穏やかな心持になっていただけるような味わいにしたい。そう思います。
たかがキムチですが、私にできることはそれだけです。
ですから今後も、ずっと無添加で穏やかな美味を追及してまいります。