私は「寅さん映画」の大ファンです。
その中でも、初期の第8作、池内淳子さんマドンナの「寅次郎恋唄」の中のある場面が、特に心に刺さっています。
志村喬さん演じる元大学教授(寅の妹の夫の父)が若い頃、闇が迫る夕刻に信州の山道に迷い、途方に暮れて歩いていた時のこと。ある農家の藁ぶき屋根の家があり、明かりが漏れ、賑やかな声が聞こえてきます。
庭にはリンドウの花が咲き乱れ、子供たちを夕飯に呼ぶ母の声が聞こえ、子供たちの笑い声が響く。
「その時私は思ったんだ。庭に咲き乱れるリンドウの花。漏れて来る囲炉裏部屋の灯り。家族の笑い声。寅次郎君。人間は、絶対に一人では生きて行けない。それに気が付かないと、大変なことになる。分かるかね、寅次郎君」
と、静かに語るのです。
数々の寅さんの名場面の中でも、記憶から消えない場面です。
さて、話は変わって政治の話。
先日の衆議院総選挙。与党が大敗しましたね。国政の与党が負けたのですから、世の中がいろいろ変わっていくと思われますが、さて、どうなるのでしょうか。
驕る平家は久しからず。古今東西、同じ体制が続いている国はありません。必ずどこかで、為政者は倒されてきました。それはキムチ屋の私が語るには壮大すぎる話ですが、もののついでに、もう一つ書いていいでしょうか。
それは、「増税で栄えた国無し」です。
20世紀中盤、ビヨンというドイツの心理学者が、「集団の心理学」をテーマにした研究をして、一つの結論を導きました。
それは、
為政者は必ず十字架にかけられる
というものです。かなりショッキングな結論ですよね。
それまでの心理学は、フロイトをはじめとした「個人の心理学」が基本でしたが、ビヨンはそこに、個人の集合体である「集団」の概念を持ち込みました。
集団が一つの心理の動きを持ち、行動していく。社会心理ともいうのでしょうか。
世の中が動くときには、必ずそれが強く働くというのです。
そして、ある集団の頂点にいる人は、必ず集団から反発を受け、そして最終的には「十字架にかけられる」のです。つまり、権力を失い、失墜していくという考え方です。
私がこの考え方を知ったのは、30代半ばで、外食産業でイケイケの拡大経営をしていた時でした。
理屈としては分かり、歴史もその繰り返しだったということも理解したのですが、それでも、「いや、俺は大丈夫だ」という妙な自信があり、そのまま突っ走りました。
そして10年ほど後に、会社を駄目にしてしまったのです。
頂点にいる人の多くは、自分に溺れてしまいます。周囲への配慮を怠りがちです。
なぜ頂点に登り詰めたのかと問われれば、「それは自分の発想力と行動力の賜物です」とでも答えてしまいます。
しかし、人間が一人の力で為せることなど、実は僅かな事なのです。
必ず、身近な誰かに助けられている。あるいは、偶然の幸運に助けられることもある。
それを「自分の力」だとも思いこみ、「俺は負けない」と思ってしまう。
そう思った瞬間に、その人の「負け」は決まります。感謝の心の無い人には人はついて行かず、それだけでなく、反駁もします。そして最終的には、「十字架にかける」ところまで進むのです。
それは決してレアなケースではありません。私のようなありふれた人間でもそれを経験したくらいですから。
話を戻します。
政治が大きく変わろうとしていますが、長い間続いた「一強政治」はもう過去のものとなり、「トップダウン」の政治から「相互理解」「合意と納得」の政治へと変わろうとしているのは、間違いないと思います。
そして、様々の「既得権益」や「絶対権力」が、終焉に向かって行こうとしているのも、事実だと思います。
今後それに抗う勢力も現れると思いますが、「我欲」だけで動く勢力がまた蔓延るのだけは御免蒙りたいと思います。
そして、長い間続いている「増税の時代」も、早く終わって欲しいとも思います。
少なくとも日本人は、みな仲間です。
互いに奪い合いや、戦いをしてはいけないのです。
寅さん映画の志村喬さん演じる老学者は、世間的には名声を得ますが、家族を失い、寂しい孤独な生活をします。
あの信州の農家の家族のような生活を、どれだけ羨んだことでしょうか。
当たり前の幸せこそが、本当の幸せなのですね。