職人の誇りを捨てるな(監修品について)

最近、コンビニやスーパーの棚に「有名店監修」などと銘打ったラーメンや唐揚げやカレー等の商品が並んでいるのをよく見かけます。

各地で人気のお店の店主が「監修」し、その店の味に模した商品をレトルトやインスタントなどの形で販売をしているのですね。

そういう姿を見て思うことをはっきりと書きたいと思います。

★職人の誇りを捨ててどうする!?

言うまでもないことですが、お店で店主が生み出した味を、大量生産の商品として製造ラインに乗せようとしても、同じ作り方が出来るわけがありません。
まさか有名店主が全国のスーパーやコンビニの店頭に自分で立って作るわけにもいきません。だから、「できるだけ本物に近いものを」というコンセプトで、有名店のメニューを再現しようとするわけです

しかし多くの店舗で扱う大量生産品となれば、保存性の問題や味の統一性の問題などから、「添加物」を使わざるを得ないのです。
添加物を使った大量生産なら、食品メーカーはお手の物なのですから。

それは、「本物に近い」と言っても、本物ではありません。当り前ですよね。
味の雰囲気が本物に近いだけで、要は人為的な加工を施した「偽物」の商品になるわけです。

そんな偽物の商品に、有名店店主は自分が「監修」という文字の元に関わったと世に示して、いったいどうなりたいというのでしょうか。

あなたが自分の店の厨房で苦労して磨き上げて来たその味が、全く違う製法で偽物として仕立て上げられ、自分の名前や店名がパッケージに載ることが、それほどに嬉しいのでしょうか。
あなたの職人の誇りは、一体どこに行ったのでしょうか。

私自身も、職人の一人です。
ですから、自分の名を冠した商品が世に広まるのを喜びとする店主の気持ちは分かります。

元来飲食店というものは、好きでなくては出来ない業種であって、それほど儲かるものでもありません。
せめて自分や店舗の「名前」が世に広まれば、日々の辛い仕事が評価されている気分にもなり、それは嬉しいでしょう。

ですが、今一度言います。

「偽物」の商品に自分の名前を冠されて、何が嬉しいのか。

聞くところによりますと、こうした「監修」により手にする「監修料」の金額は、わずかなものらしいです。
そんな金のために、自分の誇りを捨てていいのか。

それより、自分の店の考え方ややっていることを自ら主張し、日々の「商品」自体にさらに磨きをかけることの方が、誇りを増すことにつながると思います。

誇りを持ち、「偽物」の軍門に下ることを辞めましょう。

 

人は平等である

知り合いの方のお子さんが、高校生になりました。

とても礼儀正しい女子のお子さんなのですが、制服等の校則が厳しいということです。
髪型は肩まで伸ばしてはいけない、靴下の色は白だけ、靴もベストも指定のもの限定、カバンも指定のものだけとか、事細かに色々決められているそうです。違反すると、原則として学校の中に入れてくれないとか。

それを聞いて、50年前の私の高校時代を思い出しました。50年前ですよ。

東京都立上野高校には、制服というものがありませんでした。
何をどう着て行こうが、自由。
電車で通おうが、自転車やバイクで通おうが、自由。

それだけではありません。授業の出席も原則自由。嫌なら出なくてもいのです。

中間や期末のテストもありません。

噓だろうと思われるかもしれませんが、事実です。この学校は、生徒を「大人」として扱うことを校是としていて、無益な縛りは全廃したのです。

ただし、全ては自己責任となります。
テストは無くても、レポートの提出は頻繁にあります。

生徒は、自分の責任で勉強し、結果も自分の責任で受け取ります。

そう言う校風の学校で3年間過ごしましたが、「規律の乱れ」のようなことは1回も見ませんでした。
放任では無く、要所要所は教師がバックアップしてくれますので、学業の方も、それなりの成果を見せたと思います。東大に合格した生徒も、数人おりました。

繰り返しますが、50年前です。50年前に、生徒を、男も女も大人として扱ってくれた高校が存在し、私もそこの生徒の一人でした。私自身、バイクで通学し、当時のフォークソングの歌手のように長髪で、ベルボトムのジーンズを履いて、たまに授業をさぼってパチンコをしたり、喫茶店で友達と「だべったり」していました。


でも、好きな文学の鑑賞には夢中で、三島由紀夫や太宰治についての論文を書いて先生と議論をしたりしていました。楽しい3年間でした。

その後の大学の文学部での4年間は、それに比べれば実に退屈で凡庸に感じ、「まるで大学と高校のレベルが逆転しているようだ」と感じていました。

ただ、大学の途中で1年間だけ、アメリカの大学の文学部に編入して、英米文学を学んだ時だけは別でした。
アメリカという国もまた、自己責任の国です。
好きな分野の研究を好きなだけやれる国で、その結果は全て自分に帰ってくる国です。日本の大学生が遊び中心の4年間を過ごしている時に、アメリカの学生は本当によく勉強します。大学の図書館は24時間開いていて、学生が勉強するスペースが十分に用意されています。

自分で学び、導き出した結果は、正当に評価してくれます。
私のように、英語ネイティブでない東洋人が必死に英文で書いたレポートを、教授は一字一句漏らさず読んでくれて、批判してくれたり褒めてくれたりします。
教授も学生も、留学生も、「文学研究」という中では平等であり、切磋琢磨し合うという場が、大学という場所なのです。

権威主義などありません。出自で学生を差別したりしません。

だから、世界中から優秀な学生が集まるのが、アメリカなのです。

この国には、勝てない。戦争で負けたのは当たり前のことだと、1年間アメリカで過ごして、痛感したものでした。

人間の正当な力を評価してくれるのが、アメリカの発展の原動力です。
キリスト教国家であるからこそ、「神の下で平等である人間であるからこそ、信じ合う」という文化が根付いています。成果を上げれば、国籍や肌の色を超えて、信じてくれる国です。

人間は、疑われれば、相手を疑うのです。
信頼されれば、信頼するのです。

人として公平に扱われれば、その相手に対してもフェアに接するようになるのです。

出自や、家柄や、好みや外見だけで、人間を評価しようとせず、一人の人間として敬意を持って接すれば、その相手からも信頼されるのです。この日本でも、その筈です。

高校の制服や校則の問題だけではなく、もっと広い意味でも、大いに言えることです。

国籍や肌の色で人を区別、差別してはいけません。

性の好みや特性の違いで、区別や差別をしてはいけません。

互いに信頼し、ともに同じ場所で生きて行かなくてはなりません。

何故なら、全ての人間は、同じ人間であるという意味で、平等であり、公平に評価されるべきだからです。

今日本では、LGBT理解増進の法律が出来るそうですが、それに抵抗する勢力があるそうです。
由々しきことだな、と感じています。

そう言えば、私は留学から帰国して日本の大学に復学し、渾身の卒業論文を提出したのでしたが、担当教授は原稿用紙400枚に及ぶその大論文をろくに読みもせず、面談試験で「君はかなり生意気だね」との言葉を僕に投げかけ、「これじゃ卒業させられないかもなあ」といやらしい笑みを浮かべたのでした。

卒業式の日に、その論文と最終成績表を渡されるのですが、卒論の成績は、最低合格点の「E」でした。
50枚程度の読書感想文を出した友人の女子学生は、「A」をつけてもらったそうです。

この一事で、「16年間に及んで受けた日本の学校教育はこんなものだったのか」と、大きな失望感を味わったことを、昨日のように思い出します。

因みに、私の論文に「E」をくれた教授は、当時の「統一原理教」、つまり、今話題の「統一教会」の関連団体の「勝共連合」の幹部さんだったことを、最近になって知りました。

話題を戻します。

服装? 外見? 髪の色  国籍?

そんな「外側の事」で人間を評価している国には、未来は明るいものではないと思います。

どうでしょうか。50年前の都立上野高校のあの自由で溌溂とした空気は、今どこにも無いのでしょうか?

どうでしょうか?