料理の順位付けも、無帽の調理も「失格」!

 

先日、テレビで、シェフの日本一を決めるような番組をやっていました。
私はこの手の番組は好きではないです。というか、嫌いです。

料理の評価は、あくまで食べる方の「主観」で為されます。

その方の人生の背景、ものの考え方、食べる相手、季節、天候、精神的状況、等々、様々の要素が評価に絡んできます。
それが主観というものです。

ですから、同じ料理を10人が食べた時に、その評価はまさに十人十色。それが自然の姿であると思います。

そういう「主観的評価」しかできない「料理」という作品を、数名の審査員がさも偉ぶって(のように見受けられました)評価して、客観的な順位付けという行為をする・・・・もうこれだけで、矛盾そのものの行為だと思います。

ですから、「料理Aは料理Bより美味しくて優れている」という評価は、無意味です。

「AよりBの方が自分は好き」という主観的評価なら、意味があります。主観には、順位がありませんから、評価の基準を「好きか嫌いか」で行えば、問題はなくなるのです。

「好きか嫌いか」でやれば、評価はバラバラになるでしょう。
人の好みは千差万別。バラバラであることは、自然の理にかなっています。

ですから、メニューの良し悪しを順位付けすることには、全く意味が無いのです。
優勝しようが予選で落ちようが、そんな評価は無意味です。

ましてや、日本一だとか王だとかいう称号を冠すること自体、言葉は悪いですが、とても嫌らしく感じられます。
マスコミとはそういうことをするものなのでしょうが、公共の電波を使って流すべき内容とは思えません。
また、そこで仮にいい評価をされようが、そうでなかろうが、そのレストランの価値は一つも動かないということを肝に銘じるべきです。

否むしろ、下手にいい評価をされてお客が大挙して殺到でもしてしまったら、正常な店舗運営などは出来なくなるでしょう。

ところで、私がもし審査員なら、この日のシェフさんたちは、「全員失格」です。
全員帽子を被っていなかったから。

洋食関係の方に、無帽で調理する人が多く見受けられると思います。。

髪の毛は、必ず落ちます。いくら整髪剤で固めても、落ちます。
髭も伸ばしたらだめです。やはり落ちます。

だから、失格とさせて頂きます。

あくまで、やがちゃんの個人的な規準ですが。

最後の食事に何を食べる?

人生最後の食事に何を食べたい?・・・・という質問をよく見ます。
大好物のメニューを答える人もいますし、「卵掛けご飯」とか、「裏山の水」とか、シンプル素朴な答えも良く見ます。

私ならどう答えるか。
一つに絞るのは大変ですが、すらすらと、次の5個のメニューの名前が出てきました。

1)味噌チャーシューメン
2)カツカレー
3)カニチャーハン
4)カルボナーラ
5)カルビ丼

我ながら、すごく庶民的ですね・・・。

生まれは信州の人里離れた山奥で、育ちは東京下町の商店街。骨の髄まで庶民です。

しかし、もっと真剣に考えれば、「何を食べる」より、「誰と食べるか」の問題に行き着きます。

たとえご飯とお新香とイワシ焼きだけでもいいから、「最後に会いたい人」と一緒に食べたいです。
あの方、あの人、いいや、あいつかな・・・?

いえ、違います。
やっぱり、家族です。。血を分けた家族や近親者と会いたい。
できれば、死んでしまった父母や祖父母とも。

小さなテーブルを挟んで、何も語らなくていいから、向き合って食べたいです。
言葉など無くてもいい。ただ、顔を見合って食べたい。

病院勤務の方に教わりました。
病院では、あらかじめ許可を得ていない限り、何人(びと)も、たとえ絶命していても、近親者が来るまでは救命措置を続けなくてはならない。近親者が到着したうえで、死亡を確認するのだそうです。

元首相の思想信条は概ね受け容れられませんでしたが、立ち位置のはっきりした、大きな存在でした。
それでも、非業の死を「同情」や「神格化」につなげても意味はありません。
ましてや、政治利用するなど、もってのほかです。

今するべきことは、暴力では何も解決しないことをあらためて胆に銘じるべきことでしょう。

もうすぐお盆ですね。
先祖が帰ってきます。

敬虔に構え、今後の自分の生き方を、亡くなった親族に問いかける時でもあります。

生きている者と彼岸の人たちとの違いは一つ。

生きてる我々は、前に進むことが出来ます。彼岸の人は、我々の思いを聞き、見守ることしかできません。

つまり、前に進む行為そのものを、「命」と呼ぶのだと思います。

命ある私たちは、様々な制約を受けながらも、進みます。前へ。
生きているから、そうしなければなりません。

昆布はガンガン煮ればいい

昨晩出来上がった直後のチャーシューの鍋の画像です。

ネットが掛かっているのが、豚バラ肉。
それ以外はすべて、味だし素材。
これらを、ザラメ、丸大豆しょうゆ、清酒、和風だしを混ぜた液体で煮るわけです。
それは、旨いです。

 

ここにもある「昆布」ですが、最初から最後まで入れっ放しです。
昆布は沸騰させてはいけない、なんて言う方もいますが、昆布は煮れば煮るほど味が出る。

それを「雑味」と呼んで、沸騰直前に火を止めなければ雑味が出る!・・と良く言いますが、違いますよ。
雑味という味なんかない。雑味というのは、昆布に失礼な話です。
それは「旨味」なんです。

 

こうやっていろいろな素材の旨味と合わさって、混然一体となって、最後にはその料理の「味」となる。

ちなみに、チャーシューを煮終わった昆布は、「佃煮」として、最高に美味しくなります。

味は、相乗作用の世界。自由に作れる世界です。

もちろん、伝統の技術を学んで上で、そうする。
それが革新ということだと思います。

そして革新を重ねて行くことが、「伝統」の継承につながるはずです。
だから、その世界の「何代目」であろうがなかろうが、「破壊と創造」を繰り返さなければ、伝統は継げません。

やがちゃんキムチは狭い狭い世界ですが、連日これを繰り返しています。