清濁併せ呑む

コロナ禍で、「感染症」に関する関心が高まりましたね。
テレビでも連日、いかに飛沫感染や接触感染から身を守るかについて、専門家のコメントが伝えられています。

とにかく、ウィルスの存在が疑われるものには、近づかない、吸わない、触らない…というのが基本のようです。

確かに、それが完全にできれば、感染のリスクは全く無くなるわけですね。完全にできれば、です。

ですが、常に違和感を感じることですが、このような、「完全なる対策」をすることと、人間としての「人間らしい」生活が両立することは、まずありえません。人間らしさを捨てなければ感染が防げないというなら、その対策にどんな意味があるのでしょうか。

もちろん私は、どこに行くにもマスクはしますし、通常唱えられているような「対策」はしています。その上で思うのですが、「ウィルスから完全に離れることよりも、万一ウィルスが体内に入ってきても、コロナに感染しないという「免疫」の強さを養うことに力点を置いた方がいいのではないか」、ということなのです。

これは食中毒の話ですが、よく、高級ホテルのバイキング料理で集団食中毒が起きたりします。
それは、徹底的に清掃、消毒した会場に、なんらかの原因で菌が持ち込まれると、ほとんど無菌状態になった会場で、一気にその菌が繁殖するから、と聞いたことがあります。

つまり、徹底的に消毒をすると、普段は存在している「常在菌」までもがいなくなり、侵入する悪玉菌の邪魔をしてくれないから、ということなのです。綺麗すぎるのは、却って感染のリスクを増やすということなのです。

もしこの見方が合っているのなら、そして新型コロナにも当てはまるのであれば。これは由々しきことです。感染リスクをなくすために消毒をすると、逆に感染力が高まるということなのですから。

実際はどうであるか、私にはわかりません。

話は飛ぶようですが、人間そのものについて観察を続けてみると、同様のことがあるのは確かです。

過保護で無菌状態で育った者は、刺激に弱い。「悪いもの」への免疫が無いからです。

成功体験ばかり持つ者は、いざ失敗してみると、過度にへこんでしまう。あるいは、失敗そのものを認めないで、原因を他者に押し付けたりする。これも、よく見られることです。

理想ばかり唱える人は、異論をまったく受け付けない。または、異論を言う人を遠ざけてしまう。自分の信じる理想や理論ですべてが片付くと思ってしまう。そんな立派な理論や理想があれば、とうに世界は平穏に収まっているはずなのにも関わらず、です。

等々、ウィルスの件とはかけ離れていますが、全く無関係とも言えないのではないかとも思います。

ともあれ、ウィルスは、間もなく始まるワクチン接種で、何とか駆逐しましょう。

そして、人間そのものは、

★清濁併せ呑む★

という器量を持ちたいものです。最近、そのような「大きな人」をあまり見かけなくなったと思うのは、私だけではありませんね。

もちろん、ウィルスに対する免疫力が増すとまでは、申しませんが。

 

 

アフターコロナを生き抜くために

2021年ですね。
もう1月も10日を過ぎました。遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

昨年のほとんどの時間は、我々は「コロナ」に翻弄され続けました。今まだ、この奇妙なウィルスとの戦いの最中に居ます。2度目の「緊急事態宣言」が発令されたばかりです。

その中で、飲食業や地方の観光業などは、とても大きな影響を受けています。
飲食業とかかわりの深い、キムチ製造業もまた然りで、うちの同業者の何件かが閉鎖した、という知らせも入っています。ことは、深刻です。

その中で、先日偶然お邪魔したある和食旅館の繁盛ぶりに直面し、感じるところがありました。

その旅館は、千葉県君津市の海近くにある、「わかな」という、比較的小さな旅館です。

歴史は古く、以前は海釣り客相手の「釣り宿」だったそうです。君津には温泉は出ず、工業地帯となった今では釣り船も出ません。この宿は、そういう時代の変遷に対し、ある思い切った対策で今、堂々と生き残っているのです。

それは、「極上の食事」と「貸し切り露天風呂」に特化した宿、ということなのです。

食事ですが、驚きの内容でした。素材、味つけ、盛り付け、演出・・・どれをとっても最上級であり、十分過ぎるほどの満足感がありました。味についての詳細は控えますが、とにかくレベルは間違いなく「最上等」のものでした。

そして、貸し切りの露天風呂です。
最上階に、2~3名用の5つの露天風呂があり、無料で自由に借り切れるのです。
そこで夜風を浴びながら、風呂に入る。温泉ではありませんが、麦飯石を使った「健康風呂」で、肌当たりは優しいお湯です。
目の前は、東京湾。遠く、富士山の影もくっきり見えます。
家族や恋人同士でくつろげる、とてもいい空間です。

飲食業や観光産業は、「食べる」「寝る」ということを産業化したものですが、ただ食べて寝るだけでは、「飯場」に過ぎません。
人は、生きるためだけに食べるのではなく、休むためにだけ眠るのではありません。
そこが人と動物の違うところです。

人は時に、美味なるものを食べ、癒しの空間でくつろぐことで、新鮮な感動や驚きを感じるのです。そして、明日から生きる活力を得る。

そのために、宿に泊まり、食事を摂るという、「非日常の空間と時間」にお金を払うのです。

非日常の空間と時間には、「新鮮な驚き」がある必要があります。
決して、高価なものや華美なるものが必須であるということではありません。
質素なら質素なうえで、それでも何らかの「感動」「驚き」「喜び」といったものを、使用者に感じさせるものでなくてはなりません。

ですから、私の持論でもありますが、すべては、「芸術作品」と一緒なのです。

味わう人、くつろぐ人が、芸術作品を鑑賞して感動をするということと同じ意味で、食事も宿もサービスも、単なる「商品」ではなく、「作品」であるべきなのです。

ここまで出来てこそ初めて、その「作品」たちは、世に受け入れられ、それ相応の「報酬」を受け取る資格が出来てくる。そう私は考えています。

この君津の旅館「かわな」で、あらためてその思いを強くしました。

もちろん、食に関しても、サービスに関しても、そのレベルに達することはたやすいことではありません。

当然ながら、長年の経験と研鑽が絶対的に必要となります。
おいそれとできることではないのです。

しかしながら、そうであるからこそ、今コロナ禍で苦しんでいる日本中の「ベテラン職人」達には、まだまだ生き残る余地があるはずです。
ここで、まずは踏ん張る。
いろいろと補助や支援の策もでてきていますから、遠慮なくそれを使って、まずは生き残る。

そして、今までの長い経験を活かし、さらに、ネットなどを活用して、今の世に受け入れられる、ハイレベルの「味」や「サービス」をさらに作り出す。
それが出来る技は、ベテランにこそ備わっているはずです。

現場を知る者こそが、生き残らなければならない。今までの苦労を、今こそ生かさなければいけない。格好の良い理論やシステムなどに負けてはならない。
勝つのは、泥と汗にまみれて苦労してきた、我々職人たちでなくてはならない。何故なら、我々こそが、感動を「創る」行為をするものだからです。我々は、嬉しい驚き、感動の喜びを作り上げる職人なのです。

もうすぐ、コロナの闇は明けます。ワクチンも出来ました。
ですが、アフターコロナの世界では、人々の選別の目は一層厳しくなります。
今までと同じレベルでは、相手にされません。必ずそうなります。

ですから、何としても、「感動」を生む作品を作らなくては。

強くそう思います。