沖縄の海

50年前、私は都立高校の2年生でした。

その高校は高校学園紛争の象徴のようなところで、「自由と責任」を強調し、生徒の政治活動には極力寛容。私生活にも寛容。制服も校則もなし、授業の出席も自由。試験もないし、成績順位もつけません。

大学のような「自主ゼミ」もあり、生徒が「自分で考えること」は大いに推奨したものですから、この年の沖縄の本土復帰については、友人同士で教室で大いに語り合ったものです。

本土復帰のその日か次の日かだったと思います。
しょっちゅう嫌がらせに来る右翼団体の街宣車が、授業中なのに校庭の脇で大音量でアジテート演説を始めました。

「〇〇高校の諸君、君たちの学校の教師はクズばかりだ! もっと歴史を学びたまえ! 大和魂を学びたまえ!」などと怒鳴り立て、授業どころではありません。

あまりにうるさいので、私と仲良しのN君が合図して、「やっちまおうぜ!」と立ち上がって、教室を出ました。先生は止めもしませんでした。

校庭に降り街宣車に近寄った私とN君は、フェンス越しに「うるせー!帰れー!」と叫び、校庭の石を投げ始めました。パチンパチンと、石は街宣車に当たりました。

中から、迷彩服を着た男性が飛び出てきて、「てめーら! この野郎!」などと叫んで走り寄って来ましたが、フェンスがあって上って来れません。
私達はその男性にも、石を投げつけました。

男性は堪らず車に逃げ帰り、またマイクで、「おまえたちの学校は間違っているぞー!」などと叫びながら、走り去っていったのです。

校庭を戻る時、教室からクラスメイト達が顔を出し、「よくやったー!」と拍手をしてくれました。手を振って応えました。他の教室からも、「いいぞー!」という声が掛かりました。

その後、先生や学校からのお咎めはありませんでした。

N君と私は、共同で文学同人誌を作って校内で配ったりした仲でしたが、N君はその後東大文学部に進んでビール会社の企画関係の部署に就職し、私は私大の文学部に進んだあと、一時は原理的な右翼思想に影響されたりもしましたが、親の急死で家業の小さな商店を継ぐことになり、それきり文学生活には別れを告げました。

それから10年も経ったころ、ビール会社の営業マンに連れられて、突然N君が私の店にやって来ました。
エリートサラリーマンになっていた彼は相変わらず受け答えに賢さがあふれていましたが、沖縄返還の日のあの石投げ事件の話になった時には、少年の顔になって「あの時は楽しかったなあ」と笑っていました。

とにかく、あれから50年。
沖縄は相変わらず、日本で一番貧しい県のようです。
米軍基地もそのままです。
もう左翼でも右翼でもなく、ただのキムチ屋の主人でしかない私も、「何とかならないものか」と思うことがあります。
今、石を投げるべき相手は誰か。いるのかいないのか。
石を投げなくても、思いを馳せるところは、どこか。
そもそも、大和魂とは、沖縄の心とは、いったい何なのか。それに答えられる者がいるのか・・。

キムチを自分で作って、吹けば飛ぶような商売をしている身には、いろいろと思いが浮かびますが、文章にはなりません。

何はともあれ、健康であること。体もそうですが、それ以上に頭も、考えることも。

今堂々と言えることは、そうやって自分の心を養いながら、さらによりいいものを作り、人様のために商うことだけが、するべきことだということです。

年齢を重ねて来ると、友人関係も無理には広げたくなくなるものです。
自分の真実の姿を理解しようとしない、あるいはできない人たちとは、敢えて近しくなろうとしなくなります。一言でいえば、好きな人とだけお付き合いするようになる。

場所もそうでしょう。今更、行きたくない場所には行きたくない。
好きな場所には、何度でも行きたくなります。