
AIの時代です。
あっという間に社会の隅々でAIが使われ、小中学校でも既にAIの利用方法を教えているということです。私のようなIT音痴でさえ、気が付いたらAIの恩恵に与っている、というような場面が多々あります。
味の世界ではどうでしょうか?
たとえば、「美味しいカレーのレシピーを作ってくれ」とAIに頼めば、即座にいくつものレシピを提示してくれます。
「女性好みのマイルドな味わいのカレー」「マニアックなスパイシーなカレー」とか、いろいろな風味のカレーのレシピーも、すぐに作ってくれます。
もちろん、キムチもそうです。今もChat-gtpで試してみたら、瞬く間に、無添加キムチの作り方を示してくれました。
それを見て、キムチ屋の経験40年の私が感じたこと。
それは、「まあ、やってみなさいよ。簡単にはいかないから」ということでした。
AIレシピにしても、あるいはキムチの名人の方から伝え聞いたレシピがあるにしても、結局は
「他者が作ったものは、結局他者が作ったもの」
だからです。
レシピを学ぶことは重要ですが、そのレシピを作った人と、そのレシピを学んだ人の間には大きな距離があります。なぜなら、作った人の側には、「創作の動機」があるからです。
もっとわかりやすく言えば、
「自分の味で、食する人に感動を与えたい」
という意欲があるのです。これをさらに言えば、「創造の情熱」とも言えますし、さらに言えば、「愛情」とも表現できるでしょう。
AIには、人間がとてもかなわない情報取集力、アレンジ力があります。
だからすぐにレシピをて提示できるわけですが、AI自体が「美味しい」「美味しくない」という味覚を持っているわけでもなく、あくまで「情報」の中で、「こうすればより美味しくなる」というレシピを推論で出してくるだけです。
推論で抱ける愛情などはありません。
愛情には、人として生まれた故にまとわりつく、迷い、欲望、ためらい、絶望、希望・・・・そういった感情が無限にまとわりつきます。
物を食べて感じる感覚も、物を作って食べさせる感覚も、その間にある関係性も、まとわりつく感情の一つです。
こうした世界に、AIは入って来られないのです、
私たちは生きています。
生きている限り、完璧なものなど実現できません。
完璧なものを目指して日々努力していく過程が、「生きる」ということではないでしょうか。
生きている私たちが、生きているほかの方に召し上がって戴くために作るもの・・・
それが、料理というものだと思います。