信じるのは、「思想、宗教」より、「食の力」です(2025/8/1)

    やがちゃんキムチはご存じの通り、全商品を添加物無添加で作っております。酵母エキスさえ使いません。そのうえで、極上の美味を醸すという、常識では不可能と思える製法に挑み続けています。 その結果としての当店商品の味のレベルは、お客様が一番よくご存じのところです。 さて、この「完全無添加」の製法を公言しているせいか、時々、マクロビオティックを実践されている方や、独特の食の思想を持たれている方からのお問い合わせやご要望などがあることも確かです。 そこで敢えてここで明言いたしますが、 当店は、商品製造に関しては、一切特定の思想や宗教や主義等とは与しません。全くの無関係であり、今後もこの姿勢は貫きます。 特段、そのような思想宗教が嫌いだとか否定しているというわけでもありませんが、商品製造に関しては、 ひたすら美味であることを目指して進み続けた結果、無添加になった というのが事実なのです。クオリティの高い素材の大量使用や、素材の特性を生かした組み合わせの工夫や、和食や中華の製法を取り入れた、キムチではふつう使わない製法の導入だとか、とにかく、ありとあらゆる「美味しくする努力」を繰り返したら、結局添加物など必要のないレベルに仕上がった、ということなのです。 ですから、キムチを離れたら、アミノ酸入りのラーメンも平気で食べますし、それが悪いことだとは思いません。 しかし、 添加物に頼る職人は、技術が足らないことを自らさらしているだけ ということは確信しています。要は、研究も足らず、腕も未熟だから、添加物に頼らずに作れないだけなのです。 思想宗教の問題ではなく、「腕」の問題なのです。 私が信じ実践していることがあるとすれば、これです。 美味なものは、人の心を和らげる これは、食に関する仕事を40年以上続けてきた結果、迷わず言えることです。 人は、心に波が立ち、落ち着かなかったり、落胆したり、昂奮してしまうことが時にあります。 そのようなときに、本当に美味のものを食すと、心のこわばりが消え、和らぎます。 添加物の刺激感ではなく、自然の素材の静かなる味わいが、人の心にまで沁みて来るのです。 私が信じるのは、この「食の力」です。それ以外ものものではありません。  

沈黙は金、雄弁は銀(2025/7/20)

どういう運命のいたずらか、私は今、味の世界にいます。

料理の勉強をしたこともなく、師匠もいません。飲食店に勤めた経験も皆無です。もともとは酒の小売店主であり、その前は文学部の学生でした。

「やがちゃんキムチ」の創業は35歳の時。もう35年も前のことです。

副業で経営していたラーメン店の資金繰りにつまり、韓国出身のパートさんに作ってもらったキムチを、酒屋の得意先の飲食店に売り始めたのがきっかけでした。

そのキムチの評判が良かったので、新聞広告を出したり、楽天市場に出店したりしたのが25年前です。

もともと辛いものは苦手ですからキムチなど嫌いでした。それはキムチ屋を始めてからも変わらず、自分ではほとんど食べませんでした。

とにかく、売れればいい。売ってお金が入ればいい。どんな売り方でもいいから、売れればいい。その一心でした。 ですが、韓国のおばさんも帰国していなくなり、公私ともに失敗を繰り返して千葉に移ってから、考えが変わりました。というより、変えざるを得なくなりました。

強引に作り、やみくもに売っても、何も残らない。誰にも喜ばれない。自分にも、喜びなどなく、ただ、お金がいくら残ったか、いくら足らないか、そんなことばかり気になって、幸福感や満足感や充実感などという言葉とは無縁の世界にいました。

千葉で小さい商売に衣替えし、とにかく、売り上げが少なくともいいから、自分にとってもお客さんにとっても、「嬉しいもの」を作って売ろう。そう思うようになりました。それが20年程前のことです。

それならまず、キムチでは不可能とも思われた、「無添加」に挑んでみよう、と決めました。 キムチは、辛い漬物です。ただでさえ、漬物は化学調味料のアミノ酸まみれの世界。そこに辛さが加わったキムチで、「自然の美味」を」無添加で感じてもらえるのは、ほとんど不可能だと思われていました。

無添加のキムチと称するものもあるにはありましたが、食べられたものではありません。 無添加にすること自体は簡単です。 アミノ酸等の添加物を入れなければいいだけの話で、だれでもすぐに無添加にできます。 しかし、それで美味を実現し、保存性も兼ね備えるのは、至難の業です。

工夫を凝らし、無添加化して売ってみました。 多くの方から「まずくて食えない」と言われました。 卸していた飲食店のお客さんには、「客の体の事などどうでもいいから、味の素バンバン入れて作り直せよ!」と怒られたりしました。

それでも、一旦無添加化してからは、二度と有添加には戻しませんでした。それをしたら、商売をやっている意味がなくなります。私にとっては、商売をやめるということは人生をやめることに等しいです。

やったのは、天然素材を増やすこと、配合を工夫すること、和食や中華の技術を応用すること、旨味の科学を勉強すること・・・等々です。 とにかく、考え付くことはなんでもやりました。

たとえば、「味の素」100g分の旨味を自然の昆布から出すために、何キロの昆布が必要かを実験したりしました。 この実験の結果、味の素の500倍分の金額の昆布が必要だとわかりました。 500倍です。味の素なら1000円で済むところなら、なんと50万円分の昆布が必要なのです。 こういうことを、昆布だけでなく、いろいろと試してみました。 そして、「これがいいのでは」というやり方が見つかると、すぐに実際の商品に応用しました。

つまり、現場で自分で、料理学校を開いていたようなものです。それも、お客さんをある意味の実験台にしながら。

「おたくのキムチはいつも味が違うね」とはよく言われましたが「前より美味しいね」とも言われました。それは本望でした。

東日本大震災の年に、一つの結論として、「頂」という名の白菜キムチを出しました。

塩を自作でブレンドするという方法を編み出し、その塩(夢の塩)だけで塩漬けするという、大変コストのかかるやり方でキムチを作ったのです。

それは大好評となり、15年後の今に至るまで、当店の看板商品として活躍してくれています。 「頂」は、可能な限りの味の粋を詰め込んだ、一つの結論ともいえるキムチです。

その後、唐揚げやカレー、マーボ豆腐、チャーシュー、弁当等々に扱い商品網を広げられたのも、キムチの無添加化で呻吟した経験があったからです。 こうした総菜類も、もちろん無添加です。関連業種の人なら、それがいかに困難なことであるかはお分かりになる筈です。

料理学校ではキムチの無添加技術を教えてくれないし、教えられる人もいないと思います。

何故なら、たかがキムチや総菜ですが、それは、すでに「技術」の問題などではなくなり、「生き方」の問題になっているからです。

料理は現場で「実践」したり「味わう」ことが先決の世界です。座学は関係ありません。理論も参考程度にしかなりません。

結局は、食べて味わうことでどのような「幸福感」を感じられるか、それがその人の人生の状況にどう働きかけるか・・・つまりは、生きていく上での大きな「力」になってくれるのが、「食」の世界なのです。

そしてそれを作る側が、なぜ敢えて、コストがかかり技術的にも困難であるキムチの無添加化を貫くかということも、この「生き方」の問題につながります。

美味の追及を極めれば、自然と無添加になる。偽物ではない、本当の美味は、無添加の技術でこそ生まれる。 これが当店の結論です。

「頂」から、15年。 その後の総菜の経験を生かし、さらなる進化のキムチも作りました。ネーミングに悩みましたが、「頂・その先」としたのは、以上のような経緯があるからです。

やがちゃんキムチは、社是として、「有料広告」を一切しません。(無償の取材や紹介報道はお受けします) それから、無理な宣伝やSNS活動もしません。 SNSでしようとしているのは、今何を考え、何をしているか、何を見て何を感じたかを、率直に書くことです。

それに対するご反応も、気にしないようにしています。 「売らんかな」の書き方をすることも、致しません。

もっとSNS活動をやれとか、画像が下手だとか、フォロワーを増やせとか、いろいろなことをコンサルさん等には言われたりしましたが、お金を払うコンサルさんよりも、味の世界の深みを知っているのは、逆に、お金を下さるお客さんの方です。

商品は、それ自体が、少しずつ少しずつ、お客さんのご協力で、広まっていくべきものです 商品自体が、唯一最大の「広告」なのです。

沈黙は金、雄弁は銀です。

その味、何の味?(2025/07/03)

サラダにかけるドレッシング、何がお好みですか? 私は、可能な限り「ドレッシング無し」で食べます。そのほうが、野菜の「素の味」が味わえるからです。 それでも、たまには「サウザンアイランド」とか、「和風ドレッシング」などをかけて頂くこともありますが、ごく少量にしています。 さて。
たとえばこの画像のように、サラダが隠れるようになるまで、タレをかけてしまったら、野菜を味わうのか、タレを飲むのかどちらか、と言われてしまいそうですね。 しかも、このタレ自体が「添加物」入りのものであったらどうでしょうか。 実際には、サラダだけでなく、いろいろな料理の場面でこういうことが起きています。 この絵の場合は大袈裟ですが、いわゆる「化学調味料」を使う場合、本質的にこれと同じことが起きているのです。 アミノ酸、イノシン酸等の旨味を模した「化学調味料」は、ほとんどの場合、白か透明の粉末で、目立ちません。 しかし、それを少量でも使うことになると、料理の味が一変します。 強力な旨味の呈示作用により、料理が「美味しく」感じられるようになるのです。 逆に、これを使わないと、全く旨味が感じられない、ということにもなります。 ところが、その「旨味」は、いったい何の旨味でしょうか? そうです。化学調味料の呈する、「旨味」もどきの「化学的な旨味」なのです。 ラーメン店で、丼に白い粉を入れている光景をよく見ますが、あれは化学調味料そのものです。 もしそれを入れ忘れたとしたら、そのラーメンはほとんど「腑抜け」のような味になり、少しも美味しいと感じられないでしょう。つまり、化学調味料の味自体がラーメンの味だと感じられているからです。 「中華の味」イコール「化学調味料の味」と勘違いされているお客さんやお店は、本当に多いのです。いや、おおいどころか、ほとんどがそうだといっても過言ではないでしょう。 だから、中華料理でもほかの料理でも、メニューが何であれ、同じ味を感じることが多いのです。 美味しいと思って食べているその味は、本当に自然の素材の旨味ですか? よく味わってみてください。 それは、化学調味料や酵母エキスの味ではないですか? こういうことは、日本中で本当によく見られる傾向です。 気をつけて下さいね。 本当の美味しさは、自然の食材の中にあります。 また、その食材の真の味わいを生かす、調理法や調理の「腕」にあります。 化学調味料や酵母エキスに頼る手法は、職人の恥です。 無添加製法の中にこそ、本来の美味しさがあるのです。

慰霊の日と、つくばのチョコレートケーキ(2025/06/23)

沖縄慰霊の日の本日、茨城つくばに行ってきました。 私の父は第二次大戦で中国戦線に従軍し、軽機関銃兵として逆V字型の戦列の先頭に立ち、機関銃を撃ち、敵弾を浴びました。 その時に受けた腕の傷を、一度だけ私に見せました。が、それ以外戦争の恐ろしさについて話すことはありませんでした。 それだけ、悲惨なものだったのだからだと思います。 人を憎んだり蔑んだりすることは、実は簡単なことです。何故かというとそれをすることで自分が「正義」であると錯覚できるからです。しかしそれはあくまで錯覚であり、そして人として恥ずべき事なのです。 差別。虐待。無視。いじめ。 人を憎むこともそれと同じ延長にあります。 一方、他者を愛することは、簡単なようでいて、実は非常に難しいことなのです。自分と相手を同じレベルで見られるからこそ、愛することができる。時としてそれは嫉妬や羨望を伴い、心の葛藤を生み、苦しみを生む。しかしそうやって苦しむからこそ、相手への敬意、愛情、感謝、許しの心が芽生えて来る。その芽生えこそ、「愛情」の始まりであり、愛情を持つことこそが人が人である所以なのだと思います。 愛のために、人は死ぬことができます。例えば、子供のためなら、多くの人は自分が死んでも構わないと思っているでしょう。 でも、憎しみのためには、人は自分では死ねない。逆に憎しみのために、人は鬼畜となり他人を殺すことができる。 それをお互いにすることを国が許容する行為が、戦争でしょう。 何も生まない、破壊だけの行為。憎しみの心を満たすだけの行為。それが戦争です。 実際、80年前の日本は、それを国を挙げてやっていた。 無垢の善良の命を無残に砕いてしまった。 たった80年前のことです。
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そして今この時、地球の別の場所では、同じ行為が行われている。他人事ではない。いまそこで、すぐそこで行われている。自分の父の時代にはこの日本でそれが行われていた。いや、その憎しみの延長の行為は、日々今ここでも行われている。 いくら技術が進歩しても、科学が命まで作れるようになっても、人間はこの愚かな行為をやめられない。 何故やめられないか。 弱いからです。小さいからです。いまそこのあなたが、別のあなたが、弱くて小さいからです。だから言葉だけ勇ましく、さも強そうに振舞って、結局他者を生かすことが出来ない。殺すことしかしない。その小ささ、弱さが、他者を殺す行為の根源だと気がつかないで。
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今日つくばで食べたのは、このチョコレートのケーキ。 こんな美味しいものを、人は作ることが出来ます。 これを食べて、難しい顔をする人などいない。皆微笑みながら食べるでしょう。 これが作れるなら、笑顔で食べられるなら、平和な世界も作れると思います。 同じ食べ物屋で生計を立てる自分も、笑顔で食べていただけるキムチを作っていかなくてはと思います。 自分は非力ではあるけれど、せめて人様より上手にできるこのキムチの道で、穏やかな世の中に貢献できたらと思います。

酵母エキスは事実上の「化学調味料」です(2025/06/01)

 

 

最近、キムチも含めて、酵母エキス入りの加工食品を「無添加」と謳って売っている例を良く見ます。

代表的な例は、有名な「出汁パック」で無添加と称し、女性中心に人気を集めている商品がありますね。
昆布や魚介の出汁素材をパックに詰めたもので、「これをパックごと調理の場面で料理に入れれば、いい出汁の味が出ますよ」というものですね。

もちろんこれは、違法表示でも誇大表示でもありません。
日本の法律では、「酵母エキス」は「添加物」では無いとされているからです。
だから、この出汁パックやその他の酵母エキス入りの商品を「無添加」とするのは、間違ってはいないのです。

ただ。

私の言いたいことは、これです。

酵母エキスの効果も、ハイミーや味の素等の「アミノ酸調味料」の効果も、本質的に同じだということです。

たとえば、ママが子供に毎朝みそ汁作るとします。
できるだけ自然の美味を味わって欲しいので、煮干しや昆布で出汁を取ります。酵母エキスもアミノ酸調味料も使いません。
するとそのみそ汁は、煮干しや昆布、みそ汁の具、味噌の味わいだけで出来ている、本物の「無添加味噌汁」ということになります。優しい、ママの味。こういうママを持つ子供は、本当に幸せだと思います。世界で唯一無二の、ママの味噌汁。本当の美味しさというのは、こういう料理の中にあるのです。

ところが、酵母エキスを入れるとどうなるか。
それは、酵母エキスの味となるのです。先述の出汁パックでも、昆布や魚介の素材の質と量が十分だったら、酵母エキスなど必要ないはずです。
なぜ酵母エキスを使うのか、それは、天然素材の質と量が希薄だから、酵母エキスで人工的に「旨味」を補う必要があるからです。ということは、そのみそ汁は、天然素材を味合わずに、酵母エキスの味で「ごまかされた味」であると言えます。
恐らくこれを読んだこの酵母エキス利用食品の関係者の方は、「いや、それは違う!」と仰ると思います。
酵母エキスは安全であり、自然の素材で作られたものであるのだから、旨味を加えるために利用するのは極めて正当なことであると、仰ると思います。

けれど違います。私はこう答えます。

それは、あなた方の「腕」が悪いから、そうせざるを得ないだけだと。
もっと悪く言えば、経済性優先でそういうものを子供に飲ませるということは、決して褒められたことではありませんよ、と。さらに悪く言えば、それをいかにも自然な食品であると強弁するそのやりかたは、一種の「詐欺」の入り口に向かっていると思えますよ、と。

人の口に入るものを作るという行為は、「良心」が無ければ出来ません。

食する人の喜びと健康を、我が喜びとする人こそ、食べ物を作るに値する人です。

酵母エキスは、アミノ酸調味料と本質的に同じ目的で作られています。

その味、本当の美味しさですか?
酵母エキスやアミノ酸の味に過ぎないのではないですか?

そう問うことを、習慣にしていきましょう。